岩崎葉子『「個人主義」大国イラン』

日本の高度経済成長からバブル崩壊、そして失われた10年と言われた時期に渡って、いわゆる「ポストモダン」であり、リバタリアニズムといった「思想」が、巷間を賑わせた時期があったが、そこにおいて基本的に問題とされたのは

であったと思っている。ポストモダンでありリバタリアニズムが言っていることは、基本的には、これから「個人主義」の時代が間違いなく来ざるをえなくなる、という主張であり、そしてその主張のより本質的な意味は

であった。お金持ちがどんどんお金を集めて、貧乏人がどんどん貧乏になっていく社会を、基本的に「肯定」しよう、という、そもそも、今

  • 富裕階層

にいる連中にとって、得になる話を、おめでたくも言祝(ことほ)いでいたわけで、なんともお気楽な連中だな、というわけである。
しかし、私はこういった思想の「内実」はかなりあやしかったと思っている。つまり、ポストモダンリバタリアニズムといったことを輸入学問として、大学のえらい学者さんたちが「優等生」よろしく、唯唯諾諾と海外の偉い学者が言ったことを日本に輸入した。しかし、そもそも「翻訳」をする人は、その人ではない。つまり、翻訳とは最近ではコンピュータでもやり始めているように、中学校の頃に習った、数学の「公式」のようなもので、内容なんてさっぱり分かっていなくても

  • 翻訳

はできる。なんでこんな意味不明なことを言ってるのかな、と疑問をもちながら続けるのが「翻訳」というもので、ついに分からずじまいだったという成れの果てが、「個人主義」というわけであり、つまり、内実がない。彼らは、本当のところ「個人主義」を徹底させるということが

  • 何を意味しているのか

を分かっていない。なにか「抽象的」な、決まった「ジャーゴン」をくちばしっていたにすぎず、その内実がなんなのかについてまるで分かっていなかったし、分かろうともしていなかったのではないか。

こういう傾向はイラン人の職業生活に顕著に現れる。彼らは企業や官庁といった組織に帰属すること自体には、あまり大きな意味を見出さない。むしろ個人がどんどん多角化することでキャリアや生計のリスクを担保する。いくつもの職業をかけもちし、ちょっとでも「自分にできそうなこと」であれば未知の分野にも身軽に参入する。
あたかもみんながフリーランスとして生きている。日本でフリーランスと聞けば、通訳やライターなどといった特殊技能を有する専門職を思い浮かべるが、イランでは違う。エリート官僚であろうが、システムエンジニアであろうが、はたまた旅行代理店の相談員であろうが、いま現在所属しているXXX庁やYYY社とは無関係に、自分には仕事の遂行能力と人脈とが備わっているのだと考えている。
だからイラン人はやすやすと他人の言いなりになって働くことがない。ましてや終業時刻後に会社のためにサービス残業をするイラン人を想像することはできない。言い換えると、イラン人を組織のために働かせるのは至難の業だということだ。
個々の多角化がよしとされる以上、当然のことながら「この道一筋」はとりたてて推奨されない。事業家であっても、たったひとつの事業を守り拡大することよりも、まったく別の収入源を同時に確保するほうが賢明だからだ。「石の上にも三年」などと、長い下積みと研鑽とを職業人の徳と考える日本的価値観にはあまり共感してもらえない。そのせいかわれわれから見ると「いったいそれでプロと言えるのか」というような未熟練労働者が各業界に溢れている。もちろんイラン人の中にも一定割合で凝り性の人はいるので、同じ仕事で刻苦勉励、何十年も続ける職人気質の人もいないではない。しかし日本といちばん違うのは、それが日本ほど賞賛されないという点だ。

日本の偉い大学に入って、学者になるような、「偉い」人は、まあ、はしたなくも、日々あきることなく

  • ぐち

を言っている。つまり、「俺の回りの人間が悪い」「俺は悪くない」、これしか言ってない。「俺、昨日、こんな馬鹿に、俺の人生の邪魔をされたよw 俺の人生の貴重な時間を、こんな、頭の悪い連中に邪魔をされて、早く、日本から民主主義がなくなればいいのにw」というわけである。
これを聞かされる回りの人間は、その吐き気をもよおす「臭気」にあてられて、ストレスで死にそうな思いをして生きているわけであるが、本人はピンピンして、毎日健康っていうのは、どういうわけなんですかね。本人いわく「ふまじめ」こそ<正義>。そりゃ、回りの人が、かわいそうになる、というものでしょう。
例えば、戦後の進駐軍による検閲、日米合同委員会にしても、最初は日米のリーダーたちが、喧喧諤諤と議論をしていたが、ある時から、そんなに頻繁に、激しく、行わなくなる。なぜかというと、もうその頃には、そういった「要望」は、実現されていくだけでなく、もはや

  • わざわざ命令しなくても「勝手」にやってくれる

ようになる。つまり、あらゆるシステムの究極の「完成」は、命令のない社会である。命令は、一回一回、その「意図」を確かめて、伝達していく必要があり、時間もかかるし、非効率だから。ようするに、ここに

  • アメリカ様の「言いなり」になる<プロ>

が現れる、というわけである。
その典型的な例が、エリート大学進学者であろう。彼らは、言わば、「なわばり」意識が強い。自分は、一般社会の「パンピー」とは違う。奴らのように「馬鹿」ではない。そうして、自分の得意な分野を「囲い込む」。この分野について、シロートが言及すること自体にさえ、嫌悪感をもち、「シロートは俺の書いた本を買ってればいい」「ただし、おれの本については何も言うな」「一言でも批判めいたことを言うな」「どうせ俺の意図がわかるはずのない頭の悪い大学しかでていないくせに」「おれの商売の邪魔をするな」というわけである。
しかし、そもそも「個人主義」とは、

  • 素人主義

のことではないのか? お前の言っているそれは、言っていることとやっていることが、まったく逆転していないのか?

「そのへんの若者」たちのみならず、元生産者の「生産」から「流通」への華麗な転身は、中国の「専業市場」という稀代のサプライヤーがあってはじめて可能となったことは言うまでもない。言語も文化も遠く隔たった東アジアの新興国という未知の世界とはいえ、百戦錬磨のベテラン商人でなくとも寛容に受け入れる巨大市場では、イランのにわか「輸入業者」でも悠々と闊歩できたというわけだ。
しかし彼らの転身劇を見ていてむしろ驚かされるのは、中国で易々と品物を買い付けてくることそのものよりも、持ち帰った品物を、いとも簡単に国内の既存市場で売り捌いている、ということのほうである。

ようするに、こういうことなんだよね。自由だとか「個人主義」だと言うなら、徹底した

  • 市場開放

をやれよ。これを「隅から隅まで」徹底させろよ。つまりは、それが伴わなければ筋が通らないでしょ。つまり、それって

  • 素人主義

にならざるをえない、ということでしょ。しかし、むしろ、それに最も「悪い」形で反しているものこそ、大学教授などに代表されるアカデミズムなわけであろう。
彼ら文化系学者が毎日やっていることといえば、

  • 人間には二種類の「人種」がいる。頭の悪い「エリート大学に入れない<落ちこぼれ>」と、「エリート大学に入れた<天才>」

ということの「証明」でしかない。それしか言っていない。彼らがなにか新しい概念を発見したと言ったとき、必ずそれは、この「境界線」の分割のことであり、どうやって国家は、この

  • 身分

を「保証」するのか。どうやってこの「身分差別」を「しょうがない」として、一般ピープルに認めさせるのか、という話しかしていない(それを「リアル」だとか「現実」だとかと、彼らは言うわけであるw)。
日本社会のどこを見ても、「身分差別」ばかりではないか。公務員は「コネ」入社ばかりだし、市場は閉鎖的で、ステークホルダーカルテルを結んで、新規参入を許さない(ようするに、こういった「いじめ」のための「団結」を「チームワーク」と呼んできたわけであるw)。しかし、この最も典型的な例こそ、アカデミズムではないのか。
個人主義を目指すのなら、必然的に、「素人主義」を認めなければ、筋が通らない。この反対はありえない。ところが、そういった「個人主義」を主張している、ポストモダンリバタリアニズムを言っている連中こそ、最も「悪質」な、素人主義へ「悪罵」を投げつけ続けてきた連中なわけであろう。まあ、なにをか言わんや、ということでしょうか...。

新書786「個人主義」大国イラン (平凡社新書)

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