私は、「反知性主義」という言葉がさかんに使われたとき、非常に興味深くその様子を眺めた。というのは、こういうことを言っていた人たちが、基本的には、いわゆる「原理主義」批判を行っていた人と重なっていたからであった。
日本における、いわゆる「原理主義」批判が行われたのは、いわゆる
を境にして、さかんに行われた。また。3・11を境にして、それは「イスラーム原理主義」という名前で使われるようになる。
私はこういった現象を非常に、奇妙な印象をもって受けとっていた。つまり、この「原理」ってなんなのかがよく分からなかったからだ。
そういう意味においては、私はあまり、近年のアカデミズムに通じていなかった、ということを意味していたのかもしれない。そもそも、経済学の分野では、「原理」と言えば、
のことであり、今のリフレ派を含んだ、近年の数理経済学のことを指し示している、と解釈されていたからだ。
ところが、そもそもこの言葉の原語は「マーケット・ファンダメンタリズム」である。つまり、ここで「原理」と訳されている言葉は「fundamentalism」なのだ。どう思われただろうか。普通に「誤訳」ではないのか?
ではなぜ、この「ファンダメンタル」という言葉が「原理」と日本語で使われることになったのであろうか。
こんなことを考えていたとき、掲題の本に、まさに同じような「疑問」をもたれた方がいて、このような、まとまった文献を残されていることを知ったわけである。
ファンダメンタリズム(fundamentalism)という英語は、二〇世紀前半、アメリカ合衆国のキリスト教プロテスタント社会で、神学的モダニズムへの抵抗として生まれた宗教運動を指す用語として使われはじめた。一般にキリスト教の文脈では「根本主義」という訳語で使われている現象である。この運動は、特に、一九二五年に合衆国テネシー州の小さな町で、ダーウィンの進化論を教えていた学校表紙を訴訟したこと(スコープス裁判)で名を馳せた。
このように「根本主義」と訳すのなら、確かに自然な印象を受ける。その上で、「イスラーム原理主義」と呼ばれることに対して、こういったアメリカ・キリスト教ファンダメンタリズムとの「アナロジー」を使うことについては、どうだろうか?
このようなキリスト教ファンダメンタリズムの思想的特徴は、今日のイスラーム世界で「原理主義者」と呼ばれている者たちのそれと完全には一致しない。現在、世界に一三億ほどいるといわれるムスリム(イスラームの信者)の大半は、その聖典・クルアーンは唯一絶対神、世界の創造主であるアッラー(神)の言葉の集成であると信じており、したがって無謬であるとみなしている。クルアーン無謬説は、ほとんどのムスリムが堅持している立場なので、この基準をあてはめれば、ほとんどのムスリムが「原理主義者」となってしまう。
また、「千年王国論」も、必ずしも「原理主義者」と呼ばれているムスリムのすべてが共有している考え方ではない。この世の週末とアッラーによる最後の審判が存在するという発想はほとんどのムスリムが信じているといえようが、それが必ずしも救世主待望論と結びつくわけではない。
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掲題の著者の、そもそもこの問題に関心をもった最初は、おそらくこの「イスラーム原理主義」という言葉への違和感にあったと考えられることが分かるのではないか。
もしもアメリカの「聖書無謬=ダーウィン進化論の否定」といった意味で、「クルアーン無謬」をこの定義とするなら、イスラーム教徒は全員、「原理主義」ということになってしまう。
これはなんだろう? イスラム教「全否定」を、日本の「原理主義」否定論者はやりたいのだろうか?
あるいは、そうなのかもしれない。いや。そういった場合、彼ら、日本の「原理主義」否定論者は、おそらくそこに、なんらかの
- グラディエーション
を見ているわけである。つまり、彼らが言いたいのは「極端はダメ」ということなのだ。
さらに、「ファンダメンタリズム」という英語を日本語で「原理主義」と訳したために生じてきた問題にもふれておきたい。
この訳語がどのようにして選定されたのか、その事情は詳らかではない。キリスト教学の文脈では「根本主義」と訳されていた英語の「ファンダメンタリズム」にたいし、しかし、ひとたび「原理」主義という言葉が選ばれ、一般化したところから、ファンダメンタリズム現象の理解に関して、日本の言説世界に独特の論点、もしかしたら「歪み」が生まれたことは確かである。
実際、日本における「原理主義」の議論を眺めると、「原理」の有無が原理主義であるかないかの判断基準になっているような発言にひんぱんに出会う。中には、「ことなかれ主義」という「負の原理主義」などという見解も提出されている[中村・町田 一九九八]。また、G・ソロスの提唱したマーケット・ファンダメンタリズムという言葉も、時として「市場」を重視するファンダメンタリズムというより、「市場原理」を絶対化すイデオロギーといったニュアンスで用いられるようである[ソロス 一九九九、福島 二〇〇〇]。そこでは、「完全なものが存在するという信仰、絶対が存在するという信仰、どんな問題にも解決策があるはずだという信仰」など、「極端に走りがちなある種の信仰」という部分を強調する「ファンダメンタリズム」という言葉[ソロス 一九九九:一九八]が、「原理」と「主義」とに分断され、むしろ前者のほうに重点が置かれた議論が進められているように思えるのである。
そもそも、まさに掲題の著者が言っている通りに、日本の議論はなっているわけであろう。彼ら「原理主義」否定論者が言っていることは、マルクス主義もフェミニズムもエコロジーもダメ。だって、原理主義だから、と実際に言っているわけでしょう。
日本の
- 「原理主義」否定論
は、みごとなまでに、ここで日本語で訳された「原理」という言葉に、完全にひきずられてしまっている。彼らは本気で
- なんらかの「形式」性
そのものがダメだと言っている。つまりどういうことか?
- 極端=形式性
と主張しているわけである。彼らは本気で、そういったコンピュータ的「形式」を否定している。
そこから第二の問題点が指摘される。「原理主義」という言葉は、多神教的な日本の宗教文化の肯定的評を背景に、それと対立する否定的な意味あいをもった運動をさすものとして一般に流通しているのではないだろうか。つまり、寛容で神々の和を尊ぶ平和的な日本文化に対し、他者を承認しない偏狭で不寛容な戦闘的な一神教的「原理主義」、という対立をきわだたせるという効果をともなっているのではないか。これは夜郎自大な、自民族中心主義(エスノセントリズム)にも通じかねない発想である(より詳しくは、拙著『イスラーム的』第二部、および「『文化の翻訳』の流通・消費の側面」参照)。
イスラーム主義とは何か (岩波新書 新赤版 (885))
彼ら日本の「原理主義」否定論者の主張は、本居宣長の「漢意(からごころ)」批判にまでさかのぼり、日本の神道のような、ほとんど教典のようなものが存在しないような、非原理性を礼賛する。
こういった主張を、近年、よく聞かなかったであろうか? そうである。日本における「ポストモダン」論は完全に、この文脈において行われたのである。なにか、確定的なことを言うことを、「ポストモダン」は嫌う。とにかく、なにもかも、非決定だとしか言わない。なにか積極的なことを言うことを、極力避ける戦略こそ「ポストモダン」であったわけであるが、これが日本の文脈に輸入されたとき、簡単にこれは
- 一神教批判
に結びついた。彼らの主張は、例えば、日本の「文系」学問の「非形式化」の護教論的な論理展開を行うことになる。それは、例えば、ジャック・デリダの中期の作品のような、
- もはや論理的に分かりやすく説明することができないものを、ある種の「書く」という「パフォーマンス」で示そう
とするかのような、ほとんど無意味な文字の羅列を、「肯定」するものにさえ結果している。
ゲーデルの不完全性定理における、算術体系の形式化の非決定性が、彼らの文脈においては、あらゆる言説の「形式」化の
- 危険性(=「原理主義者」によるテロ)
といった文脈に解釈される。
しかし、先ほどから言っているように、ここでの「ファンダメンタリズム」とは、そういった文脈の話じゃないわけである。
- 「市場」を重視するファンダメンタリズム
という話が、なぜか、彼らの脳内変換によって、
- 「市場原理」を絶対化すイデオロギー
という話にされてしまっている。
そういう意味において、彼らの脳内においては「戦っている」わけである。世界の全ての「原理主義」と。この「原理主義」こそ、悪の根源であり、これさえ、世界から撲滅すれば、
- 平和になる(=テロがなくなる)
というわけである。まあ、そういう意味で言えば、彼らこそ一種の「原理主義」だと言えないこともないわけであるがw
ところが、彼ら自身はそう、自分を認識しない。
というのは、彼らには一つの「原理」があるからである。
つまり、「中庸」という。
彼らが警戒するのは「極端」である。この極端を結果するものこそ、「形式」である。よって、あらゆる言説の中、彼らは、形式的な「臭い」をかぎ、それを攻撃する。その結果が、ポストモダンである。あらゆる非決定。すべてのことに、なにも積極的なことが言えない。
しかし、私たちは実際の生活においては何かを言っているわけで。つまり、その「極端=形式」と「極端=形式」の「間」があるんだ、ということになる。
しかし、そもそも「中庸」という言葉は、例えば、中国における儒教の用語であり、アリストテレスの徳倫理学における翻訳用語として使われたものであって、そもそもは、「徳倫理学」と深く関係した用語だったはずである。
アリストテレス自身の見解についてジョンソンは言う。「アリストテレスの議論によれば、われわれが種々の徳を自分自身のうちで陶冶し、それゆえ、自分自身をより善くしていくのは、[完全に[----ワルシュの補足]]有徳な人がその性格特性に即して行うのとまさしく同じ行為を行うことによる」と。 "アリストテレス自身が、正しい行為はすべて、ずばり、完全に有徳な人がなすであろうことである、と信じている" という彼の結論を支持するためにジョンソンは、『ニコマコス倫理学』でアリストテレスが次のように言っていることを指摘する。すなわち、「われわれは......[うまく[----ワルシュによる補足]]建築することによって建築家になり、琴を[うまく[----ワルシュによる補足]]奏でることによって琴弾きになる。だからそれと同様にわれわれは、正しい行為をなすことによって正しくなり、節制あることによって節制を持ち、勇敢な行為をなすことによって勇敢になるのである」と言っていることを。
しかしながらアリストテレスは、 "正しい行為はすべて、完全に有徳な人の行為とまったく同じ行為である" とは一度も言っていない。むしろ、正しい行為は同じ一般的種類に属する行為なのだ。『ニコマコス倫理学』のこの節でアリストテレスは徳の目的論的本性を例解するために、どうやって新米が習熟者(master)になるのかを論じている。アリストテレスは徳の新米を琴弾きの新米になぞらえる。アリストテレスは 琴弾きの新米だろうが道徳的徳の新米だろうが、新米は実践することによってのみ習熟者へと発達を遂げるのだと言う。アリストテレスは "新米の演奏家は習熟者とまったく同じものを奏でる" と言ってはいない。同様に、不完全に有徳な行為者は、完全に有徳な行為者とまったく同じことをするわけではない。むしろ、新米は習熟者と、ある観点で同様のやりかたで----新米に、習熟者へと発達を遂げることをゆるすやりかたで----演奏し行為する。新米のテロス[目的]は、その術を正しく実践することによって習熟者になることである。
(S・D・ワルシュ「目的論、アリストテレス的徳、正しさ」)
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中庸とはこういった文脈において使われるものであり、
- 二元論
の「中間」を意味しない。そもそも、間ですらないかもしれない。つまり、なんらかの「曖昧さ」や「思考停止」を、
- 多神教的非形式性
によって、つまり、そういった「パフォーマンス」そのものを「肯定」するような、アニミズム的な作法とはまったく違うわけである。アリストテレス的な中庸も、もっと言えば、儒教における中庸も、その主張の重心は、
- 徳倫理学
にあると言える。上記の引用は徳倫理学の不可能性を主張する功利主義者によって行われる
- 行為記述
が、徳倫理学における、基本的な態度と整合的でないことを説明しているわけであるが、この
- 誤解
はまったくもって、上記の日本の文脈における「原理主義」と同型であることが分かるであろう。
この「原理主義」批判を決定的にしている特徴は、ようするに「対話」の不在ではないか、と思っている。テロリストは問答無用で、暴力をふるってくるので、最初から対話が通じない。それは、オウム真理教の信者も、対話の前に、地下鉄にサリンをまかれるから、対話が通じない。つまり、そこから
- 相手が分からない
ということを結果するはずなのだが、「原理主義だから、極端だから、この対話の不成立を正当化できる」という形に議論が反転する。ようするに、
- 原理主義者は<敵>
だということになり、カール・シュミット的な意味での「敵と味方」の理論になる。ツイッターで言えば、自分がブロックした相手は
- 自分の敵
であり、自分のフォロアーは味方、という分類だとも言える。自分を批判してくる相手は「極端」なのだから、原理主義者であり、ブロック対象であり、ということはつまりは、
- 自分の敵
だということになり、こういった形で、彼ら「原理主義」否定主義者たちは
- 世界と戦っている
わけである...。
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