蓮池透『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』

私は人間は感情の動物だ、と言われるとき、ある違和感がそこに嗅ぎつけざるをえない。それは、感情だとか動物だといったことを強調することによって、自らの

  • 金銭的なずさんさ

を隠しているのではないか、という疑いがあるからである。
例えば、掲題の本にもあるように、2002年の小泉首相の訪朝を境にして、北朝鮮が拉致を認める、という画期的な成果をあげることになる。ところが、なぜこの報告を、拉致被害の家族の方々が反発したのか。それは、その説明があまりにも、日朝のトップによる

  • 手打ち

といった側面が強すぎたからだ。北朝鮮は、死んだ「人数」を通告してきた。それを、日本の政治家たちは、そのままを被害者に伝えた。そうすれば、当然、それが真実かどうか、という話になるであろう。ところが、日本の政治家たちは、それに答えるネタを用意していなかった。
このことは、私たちがいつも生きている生活空間を考えてみればいい。だれかが交通事故に遭遇したなら、その事故はいつ起きたのか。加害者は誰なのか。賠償金はいくらなのか、といった「ファクト」にもとづいた手続きが行われることになるであろう。そうして、私たちはそれが納得のいかないものであっても、事実と共に、理解していくことになる。
北朝鮮が「もう死んでいます」と言ったなら、それが真実なのかを確認しなければならない。しかし、どうやったら、それができるのか、といった方向に話が進むはず。ところが、日本政府は国境すらない北朝鮮に対して、そのような調査の「強制権」がない。すべての「調査」は、お願いという形によってしか成立しない。
おそらく、拉致被害者の家族の方々は、この「ファクト」にこだわる方向で活動を起こなえればよかったのではないか、と思っている。つまり、この「事実を確認する方法」にこだわれなかった。どにかく、小泉訪朝による、被害者の一次帰国というドラスティックな光景を目の当たりにして、自らの体験においても、これと同じことが自らにも起きなければ不公平だ、と思うようになったのかもしれない。
そもそも、横田めぐみさんや蓮池薫さんが拉致された当時、実は、北朝鮮工作員と思われる人間による、拉致未遂の事件が起きていた。ところが、当時の警察はそのことを、大きな問題と考えなかった。そして、2004年の小泉訪朝まで、国民は彼ら拉致被害者を、ほとんど無視してきた。
拉致被害者家族の会は、それ以降、救う会といった右寄りの団体や政治家と行動を共にするようになり、より、過激になっていく。その主張の中心は、なぜか北朝鮮への

が活動方針になる。

また「救う会」は、「家族会」メンバーらを対象に学習会を開催していたが、北朝鮮に関する情報に飢えている「家族会」にとってはぴったりの会であった。そこで佐藤氏は、まるで現地へ行ってきたかのような話をするのだから、なおさらだ。
話は、「北朝鮮は飢餓に喘いでいる」「もう少し圧力を加えればやがて崩壊する、それしか被害者救出の道はない」という内容が中心。また、「この冬、もう北朝鮮の政権はもたない」などと、毎年のように語っていた。
加えて、北朝鮮の崩壊から拉致被害者の救出に至る道筋については、自衛隊の派遣により達成されるとし、そのためには憲法九条の改正が必要とした。時には、北の脅威に対抗するため、核武装が必要であると力説することがあった。

私は日本の改憲論者の、基本的に全てが、この系列に並ぶ人たちだと思っている。憲法九条の改正と、北朝鮮への宣戦布告は非常に密接に関連している。それは、アメリカの共和党政権が、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、北の核開発に対して、強行姿勢もじさずとしていたとき、日本のそういった右翼勢力は、アメリカとの共同歩調を合わせる意味からも、勢いづいていた。
しかし、全体としては、こういった「救う会」や「家族会」の活動は、全体として下火になってきている印象を受ける。それは、結局のところ、同様の右翼団体にも言えることで、そもそも彼らの活動が、「ブーム」の中でお金が回っている間は、威勢がいいのだが、そもそもお金にルーズなので、活動を継続していく能力に不足している、ということになるのであろう。

また、「家族会」は収支決算報告をしたことがない。任意団体であるから、その義務はないといわれればそれまでだが、やはり半端ではない額の浄財を受け取っているのだから、透明性を確保すべきだ。世間の信頼も得られない。不明朗な支出があるのではないか、と憶測されるのは、百害あって一利なしだ。
ただ、支出といっても、交通費、通信連絡費、会場使用費、消耗品費......せいぜいそんなものだ、とても億の単位には届かないのである。
そのことは何回も横田代表に指摘したのだが、「お金の出入りは『家族会』の預金通帳(横田代表が管理している)を見れば一目瞭然」との説明が返って来るばかり......横田代表は日本銀行出身だから、お金のことをきっちりやるはずと、みなが考えていた。

しかし、いずれにしろ、掲題の本を読む限り、横田めぐみさんについてはかなりの「事実」が分かっているように思われる。特に、掲題の本にもあるが、義州の病院の現地調査については、今からでも行うことは重要であるように思われる。
しかし、どうなのだろうか。
そういった方向に話が進むのだろうか。明らかに多くの関係者が今も生きている。横田めぐみさんが今も生きているかどうかに関わりなく、彼女と関係した人たちがまだ多く生きている。
しかし、この日本社会は、彼女の、横田めぐみさんの「人生」に、正面から向きあえるのだろうか? むしろ、今の日本社会には、それと正面から向きあう強度をもう失っているのではないか、といった印象がどうしてもぬぐえない。
つまり、「かわいそう」という言葉は、その「悲劇」の事実と向きあう私たちの強度を奪ってしまう。それは、3・11における、福島第一の放射性物質の拡散を、それそのものの事実として受け入れられない。まず、「安全」というフィルターを介してしか、コミュニケーションができなくなっている言説空間にもあらわれている。
私たちは「悲惨な運命」を、それとして語れない。なぜなら、それを語った時点で、それは一つの「言霊(ことだま)」として機能をしてしまうから。そういった意味で、横田めぐみさんは、未来永劫

  • 分からない

としておけば、

としておけば、あらゆる矛盾や悲劇と、正面から向き合わずにすむことになる。あまりにも感情的なショックが大きい。国民に与えるショックが大きい。そこから、政権与党は、なるべくなら、この「事実」に、自らの政権担当期間の間には、フレームアップさせないでおきたい。こんなことが、国民に知られたら、与党の責任を追求されて、選挙に勝てない。
こうして、国民は「そこ」に事実があるのに、だれもそれと向き合おうとしない。いつまでも、なにかの問題が続いているかのような「ふり」を続ける。「北朝鮮がいつまでも、誠意ある対応をしてこないからね」「あいかわらず、馬鹿な国だよね」。こうやって、ファンタジーの中での、北朝鮮バッシングだけが、人口に膾炙する。
事実と向き合おうとしていないのは、どっちなんですかね orz。
私はこういった日本の国民性に対する、一つのカウンターとして、掲題の本が理解されれば、と願わずにいられないわけである...。