ウィルフリド・セラーズ『経験論と心の哲学』

心理学において、「あなたは何何病です」と言うとき、私たちはある「混乱」におそわれる。というのは、ここで言う「何何病」という「アイデンティティ」は、一体、どのように「推論」されたのか、が説明されていないからだ。
数学においても、そもそも命題(=定理)は、その「証明」と離して考えることはできない。確かに、あらゆる数学の命題には、多くの証明の数があるのかもしれないが、少なくとも、その一つが示されないものはない。というのは、定義が「証明が存在する」ということなのであるので、まあ、少なくとも「ある」ことが言えなければならない。
これは、どこかデカルトに似ている。デカルトは、心と身体を区別することで、外界を「表象」という形で対象化「できる」という形で整理した。さて。心が外界を「表象」として対象とするというとき、その対象は「センス・データ」なのだろうか?
センス・データとは、掲題の本において著者が、検討している、ある種の「直接性」。まあ、「感覚」と呼ばれているものを指しているわけだが(掲題の本では何度も「赤く見える」という言葉について、検討されている)、つまり、「センス・データ」は存在するのだろうか? ここで言う「直接性」というものを、「それそのもの」として名指すことは、どこまで「有意味性」の担保できることなのか、ということである。
ある部族の中の、ある一人が、「自分の目の前に、オオカミが見える」と言ったとき、実際にその人は、オオカミを「見ている」のだろうか? それを、果して外部から判断する方法はあるのだろうか?
これが、いわゆるセンス・データ論なるもので、私たちが「直接」感覚しているものが「ある」ことは、私たちの日々の生活において、実際に目の前に見えているものや、指先に感じているものや、耳で聞いたり、舌で甘いとか辛いとか感じているものとか、そういった「もろもろ」のものが、実際に「感じている」ことを疑っている人はいないであろう。
しかし、「それ」が、「実際にそう」であることを、他人に示そうと考えてみると、意外と難しいことに気付くわけである。
他方で、こんなふうに考えることができる。もしも、私たちが、自分の目の前にオオカミが「いる」のにもかかわらず、「見えてない」とするなら、単純にそんな個体は死んでいるのではないか? そして、おそらくは、そうやって「見えていな」かったために、亡くなった多くの人間が過去にはいた、ということではないだろうか。
つまり、どこか逆説的な言い方であるが、「見えなければならない」わけである。どこか「義務」の様相を帯びてくるわけである。
「見える」というのは「感覚」の問題であって、そもそも、その「感覚」を私たちが「感知」したかどうか、といった「情報」だと思っている。つまり、「直接」の情報であって、なんらかの論理的な「推論」によって辿り着いた知識とは別に考えている。こういった感覚は「動物」においても同じで、ようするに、

  • なんらかの「言語活動」を媒介することなく

直接、私たちのもとに知らされる、と。
だとするなら、「見える」ということは、端的に、そういうことが「起きた」かどうかの違いでしかないんじゃないのか。起きれば「見えた」ということになるし、「起きなかった」なら「見えなかった」ということでしかない。それ以上でも、それ以下でもないんじゃないのか。
しかし、先程から言っているように、そもそも「自分の目の前に、オオカミが見える」というのは、見えなければならないわけである。見えなかったら死ぬのだ。というか、部族ごと生き残れないわけである。つまり、ここで「見えなければならない」と言っているのは、義務というより「注意の喚起」に近いわけである。集中して、神経を尖らせていれば、「オオカミに気付く」。そういった集中する「能力」が自然に発揮できなければ生き残れない、ということを意味している。
人間は群れで生活してきたのであって、自分が所属する群れが自分に命令する。その「促し」によって、「集中」することによって見る。それがなかったら見なかったかもしれない。
感覚が「それ自体」としてあるのではなく、群れの中での言語的活動によって、「構成」されている。
つまり感覚と言語活動を区別できない。
その二つの活動は「一緒」に行われるし、一方だけを独立に考えられない。二つは「協働」して作用する。
たとえば、ある部族の言葉を習い始めたばかりの人が、「オオカミを見ていない」と必死になって、何度も訴えていたら、「オオカミを見た」と言いたいのだなと分かるであろう。、その文脈において、こんなに必死で訴えるケースを考えれば、それくらいしあないからである。ということは、このケースにおいて「オオカミを見た」という表現はどこか、「情報量が無駄に多い」ということを意味していると考えられるであろう。
実際他の、群れで生活している動物も、なんらかの「掛け声」で、こういった注意を声であっていて、一斉に逃げているように見える。
しかし、もちろんそれを一人一人の個体が、勝手にやっている、と考えてもいいが、いずれにしろ、そのことは、大した問題ではない。なぜなら、それで「生き残れる」ことが、進化ゲームの意味なのだからある。ある群れがあったとして、それを「独立の個体が単に一緒の場所にいる」と解釈することもできる。一つ一つの個体あ勝手に自分の快楽のままに振る舞っているのだと。しかし、そう解釈したところで、ある個体が別の個体の行動を「注意」するということを、群れの「協同行動」と結果としてなっている(つまり、おれによって生き残れている)と指摘することは十分にありうるわけである。
確かにカントは、人間の能力を、「時間・空間についての感覚形式」と、「理性」の二つに分けた。そう言うと、

  • 動物は、前半の時間・空間についての感覚形式」だけがあって、後半の「理性」がないのね(=言語が話せないのね)

と整理して、まるで、前半の「能力」は<独立>した何かのように考えがちだ。しかし、人間の能力において、そもそも、こんなふうに「切断」できるのだろうか? 切断できる、という考えはどこか「デカルト」的だ。つまり、「表象」という形で、外界を「独立」して対象化できる、ということなのだから。
しかし、そうだろうか?
つまり、何が言いたいか? 私たちは、言語を学習して「身に付けた」存在だ。そういった存在が、何かを行うとき、その行っている行為の「あらゆる」ものに対して、この「言語活動」が介在しない場合がありうる、などという「仮定」はどこまで成立しうるのだろうか?

緑色の概念をもつため、、すなわち、あるものが緑であることがいかなることであるのかを知るためには、事実として標準的な条件の下にいるときに、緑色の対象に対して「これは緑だ」という発音可能なもので反応するだけで十分である、と答えるのは正しくない。その条件が対象を見ることによってその色を決定するのに適切な種類のものでなければならないだけでなく、認識主体が、その種の条件が適切なものであることを知っていなければならないのである。そして、このことは、人は概念をもつ前にそれらの概念をもたねばならないということを含意しはしないが、人は緑色の概念をその一つの要素としてもつ一まとまりの概念をもつことによってのみ、緑色の概念をもつことができることは含意している。それは、緑の概念を習得する過程はさまざまな状況でさまざまな対象に反応する習慣を少しずつ獲得する長い歴史を含みうるし、実際それを含んでいる一方、ある重要な意味で、時間と空間に位置する物理的対象の観察可能な性質に関わる概念について、それらの概念のすべて、そして、後に見るようにそれら以外のより多くの概念をもつことなしには、それらの概念のどの一つももつことができない、ことを含意しているのである。
いまや、上記の議論に論理的原子論者が何らかのメリットを見出したと想定した場合、彼がどのように反応するのかは明らかであると私は考える。彼は、私が時間と空間のうちに位置する物理的対象の論理空間が感覚内容に依存している事実を見落としていると論じ、伝統的経験論に特徴的な概念相互の独立性という性質は感覚内容に関わる概念に属している、と論じるであろう。そして、「結局、理論的存在者----たとえば分子----に関わる概念はあなたが、物理的事実に関わる概念に、多分正しく、帰属させた相互の依存性をもっている」と指摘するであろう。「しかし、理論的概念は、より根本的な論理空間に依存----と供応----しているゆえに、経験的内容をもっている。したがって、時間と空間のうちに存在する物理的対象からなる論理空間よりも根本的な空間が存在する、という考えをあなたが論破するまで、あるいは物理的対象の論理空間もまた整合性をもっていることをあなたが示すまで、あなたの始まったばかりのヘーゲル省察(Meditations Hegeliennes)は早まったものである」と彼は続ける。

私は確かに、外界を「感覚」している。しかし、そのことが、「経験」という、なんらかの「純粋なもの(=デカルト的な「心」と離れた<表象>)」があると考えることが、どこまで可能なのかは、おそらく別なのであろう。上記の引用の個所は、おそらく、アメリカ流プラグマティズムであり分析哲学が、「ヘーゲル」に

  • ターン

していく最初のトリガーとなった、ということなのであろう...。

経験論と心の哲学

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