アレックス・メスーディ『文化進化論』

先週の videnonews.com では、アメリカ大統領選挙の特集を行っていたのだが、その中で、今後の共和党は非常に未来が暗い、というようなことが話されていた。
というのは、いわゆるトランプやキリスト教原理主義者ばかりが共和党の大統領候補になるから、ということではなく、早い話が、今のアメリカの人口構成を見れば、マジョリティは明らかに、白人からヒスパニックに代わろうとしている。ところが、今だに、共和党の中心的な支持層は、「白人貧困層」を中心としているので、いずれ、共和党は滅びるんじゃないのか、ということであった。
今の、例えば、トランプにしても、なんとかしてヒスパニックの不法移民をアメリカから追い出す、というようなことを言っているわけであるが、この一言だけで、そもそも、トランプは一切のヒスパニック系の票をもらえない。
もちろん、これからの地方選においても、トランプは白人貧困層の多い地域では、それなりにいい戦いをするのであろうが、長期的、将来的には、こういった戦略では、共和党は選挙に勝てなくなっていく。
そのことは、日本においても同じで、今、自民党が強いのは、自民党が戦後一貫して、移民を受け入れない政策を行っているから、だと言うこともできる。つまり、むしろ自民党は、移民を受け入れない方が、人口が少なくなり、日本の国力が弱くなる方が、「選挙に勝ちやすい」とも言えるわけである。
自民党の主張は、いわば、「在特会」と同じアイデンティティだと言えるであろう。つまり、仮想敵として、「中国」「北朝鮮」を攻撃し、国内の団結を目指す。そういう意味で、在特会が在日を執拗に攻撃するのは、アメリカの共和党的であるし、自民党的である。しかし、である。もしも、多くのアジアの人たちが、日本に「移民」を始めたとき、一体、自民党の支持基盤はどうなるだろうか。
このように考えると、共和党自民党はいずれ滅びるのではないか、と思わなくもない。少なくとも、彼らの「アイデンティティ」は維持できないのではないか、と。
こういった現象を私たちは「進化論」と言ってきた。もちろん、進化論と言った場合、スペンサーの社会進化論のように、なんらかの「進歩=発展」を前提としたものをイメージするかもしれない。しかし、そもそも、ダーウィンにとっての生物の「進化」には、そのような含意はなかった。

ダーウィンが掲げた進化の三つ目の条件は、継承である。ダーウィンは、「遺伝しない変異は、私たちにとって重要ではない」と述べ、継承の重要性を強調した。彼は、生存競争において生き残りやすく繁殖しやすい個体は、自らの形質を子孫に伝えやすい、と書いている。そうした形質が、生存と繁殖のチャンスを増やすのにいくらかでも役立っているのであれば、それが継承されることによって個体群の適応度は高まっていく。つまり、継承がなされなければ有益な形質は保存されず、進化も起こりえないのだ。
このようにダーウィンの論理には継承、すなわち遺伝が欠かせなかったが、彼にとって遺伝の法則は、同種の中でンダムに選んだ二つの個体よりも親と子は似ている、という観察以外、「まったくわからない」ものだった。遺伝の仕組みが解明されたのは、グレゴリー・メンデルのエンドウマメの実験が再評価され、二〇世紀初期にさらなる実験が行われた後のことだ。ここでは、文化的継承の詳細はさせおき、文化的情報が首尾よく継承されるかどうか、人から人へ伝達されるかどうかを見ていこう。

たしかに、親と子は似ている。この場合の似ているという意味は、よその子と比べて、ということである。そう考えた場合、人間の「遺伝情報」の役割が重要となってくる。
私たち日本人は「箸」を使って、食事をすることは自明だ。ところが、こういった慣習をもっている人々は世界的に見ても、めずらしい。もちろん、日本語を話している人や日本語を書いている人も、日本以外では、めずらしい。日本において、箸を使うことは、かなり前から、一貫して継承されてきた何かだと考えるなら、それは、ある「進化論」的な観点において、生存してきた「形質」だと言うこともできるであろう。もちろんそれを、なんらかの「ガラパゴス」的な袋小路と言いたがる人もいるかもしれない。
文化を「進化」と呼ぶことは正しいのであろうか? しかし、昔から世のことわりのはかなさ、むなしさを語る言葉は、多く存在する。どんな権力も、いずれは滅びる。その意味こそまさに、進化論が言わんとしていたことなのであろう。
そう考えるなら、なぜ文化と生物の「進化」を別に論じなければならないのか。
このことは、言語について考えることもできるであろう。日本語は果して、500年後に存在しているであろうか。分からないが、今の私たちが、500年前に書いた文字を、まともに読めないことを考えても、少なくとも、まったく違ったものになっているのかもしれない。
ダーウィン流の進化の特徴は、上記の引用にもあるように、なんらかの「継承」が続いていることにあるわけだが、その場合、長い時間をかけて、その様相は「分岐」を姿を示すようになる。ダーウィン流の進化は、一定の統計学的な「ボリューム」を維持していない限り、意味のない概念であるが、その一定の「数」が、基本的には維持されながら「継承」されていく。ところが、その長い時間の経過は、それらの集団に、なんらかの「分岐」を示すようになる。もちろん、そうやって分岐した幾つもの枝は、時間の経過の中で、しりすぼみになり滅びていくのであるが、とにかく、「分岐」こそが、進化の意味だと言える。
つまり、「継承」はされるが、それが変わらないことを意味しているわけではない。継承はされるが、その枝が滅びないことを意味しない。枝が滅びることを意味するが、それら全ての枝が滅びるかはまだ別。こういった現象こそまさに、「文化」そのものではないか、と思わなくもないが、別に文化には「遺伝子」もアイデンティティも「私」も「私たち」も「民族」もない。もちろん、ミーム論などというものもあるが、なんとも雲をつかむような話ではある。結局のところ、文化を「進化」だと言ってみたところで、なにか有益な結果がそれによってもたらされているのかどうか、といったところで「科学」の「流行」が決まるのだと考えるなら、どんな有用な結果が発見されているのかと言われてみると、なんとも、こころもとない話ではあるのだろう...。

文化進化論:ダーウィン進化論は文化を説明できるか

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