理由

ロバート・ブランダムの『推論主義序説』は、別に、哲学畑の人でない限り、なにか、当たり前のことが、延々と書いてあるだけのような気がしてくる。
この当たり前のことが書いてあるだけ、という印象がなんなのかを、うまく言葉にしたいのだが、なんとも気持ち悪い感じが残ってしまう。
例えば、デカルト物心二元論にしても、カントの純粋理性批判にしても、それ以降の、フッサール現象学にしても、ハイデガー存在論にしても、もっと一般に、フロイトの心理学にしても、まさに、セラーズのセンス・データ論が考察の対象としたように、なんらかの、

  • 感覚
  • 欲望

といったものを、「それそのもの」として、ひとまずは、「一次データ」として、つまり、

  • それを「基礎」として、論理的構築物を構成していく

という形式をとっている。つまり、この「姿勢」を自明とすることによって、いわば、哲学は

  • その他の人間の活動に「先行する」

という形で、整理されてきた。つまり、この「感覚」「欲望」を、「それそのもの」として扱う「作法」を提供してきたのが、いわゆる、大文字の「(デカルト以降の新)哲学」なんだ、という自負があった。
ところが、セラーズに範をとった、ブランダムの主張は、どこか、そういった「特権」に、素朴に反対している印象を受ける。
人間は何をやっているのだろうか?
もちろん、「感覚」や「欲望」がないと言っているわけではない。だったら、デカルト以降の「作法」でいいんじゃないのか、と思わなくもない。つまり、「感覚」「欲望」という「基礎情報」に、人間の言語活動は

  • 還元

できるのだ、ということになる。いいではないか。そうすれば、まさに「哲学還元主義」で、人間のあらゆる活動は「感覚」「欲望」で「整理」でき、見通しがよくなるのではないか。つまり、人間とは「動物」のことなのであって、それで必要十分なのだから、人間を「動物」として扱うことも正当化される。

基本的なプラグマティズム的方法論のテーゼは、言語表現と意味との理論的な結合の眼目は、それらの表現の使用を説明することである、というものである。(すなわち、意味論は語用論に応じなけれならない。)この方法論的プグマティズムを支持することにおいて一致する理論家たちを根本から分かつのは、言語表現の使用というものがいかなるしかたで理解されているのかという点である。一つの立場は、その説明の目標が、使用に関する適切性にあると考える。意味は、語や文の使用が正しいないしは適切なのはいかにしてであるか、人はいかにそれらを配置すべきか、を説明するために引き合いに出されるのである。もう一つの立場(クワイン流の行動主義者が例として挙げられよう)は、使用をより節約した用語によって説明されるものとして特定することにこだわる。意味論的理論が目指す究極の説明目標は、非規範的な用語のみに厳格に制限された語彙によって記述された、発話ないしは発話の傾向性なのである。私は、なぜ二番目の立場が間違った方向へ導かれたものであるかについてもう少し述べることになるだろう。

推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)

推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)

つまり、上記の引用において「二番目の立場」と呼ばれているような姿勢というのは、ある意味において、デカルト以降の「新哲学」の基本的な姿勢なわけである。人間の言語活動を、「感覚」と「欲望」によって「整理」するなら、どこか、人間というのは

  • シンプル

な形で記述できるように思われる。もっと言えば、これこそ、デカルト以降の「新哲学」が目指した、究極の「形而上学」だったわけであろう。
(例えば、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』における「小さな物語」として整理される、「データベース的消費」とは、こういった「感覚」と「欲望」といった、ある意味における「非言語的要素」によって、整理され、データベース化された「何か」として、人間社会を、「形而上学」化することを構想した、一つの「新しい哲学=ポストモダン」として構想されていたわけで、その構想の延長に、人間の消滅=大きな物語の消滅=人間の動物化、といった関係が構想されていた。)
これに対して、基本的には、ブランダムはセラーズのセンスデータ論の主張を踏襲する形で、まったく別の、構想を提示する。
それは、次のような、言語ゲームを考えることによって、むしろ「推論」こそを、あらゆる考察の「ベース」において考える、という形になっている。

この理由によってわれわれは、主張を行うことを、推論的に分節化された内容に対して特定の種類の規範的な姿勢をとることだとして理解することができる。すなわち、それを支持し、それに対して責任を持ち、それにコミットする、ということなのである。あるものを主張であるとして扱うことと、単なるなまの発音として扱うこととの間の差異、すなわち、主張というゲームの中の一手として扱うことと、空虚なふるまいとして扱うこととの差異は、まさに、われわれがそれを、他のコミットメントに対する帰結という関係によって適切に分節化された、あるコミットメントを引き受けることだと見なすか否かによるのである。これらの関係は合理的な関係であり、一つのコミットメントを引き受けることが、推論的帰結としてそれと関係する他のコミットメントをも引き受けることを合理的に強いるのである。これらの関係は、文を主張することで人が引き受けるコミットメントないしは責任の内容を分節化する。そういった関係を離れては、内容はなく、したがって主張もないのである。
推論主義序説 (現代哲学への招待 Great Works)

ようするに、ブランダムの立場というのはなんなのだろうか? ある主張を、ある人が行うとき、そこにはすでに、「言語」が前提されている。言語共同体が前提されている。つまり、ある「言語ゲーム」を行っている「相手」が前提されている。もちろんここで、「感覚」や「欲望」がない、と言いたいわけではない。そうではないが、それらはすでに「言語」によって、

されている。ある人のある主張が「なぜ」、その他のプレーヤーに「コミットメント」されるのかは、それらの「感覚」や「欲望」の

  • 真実性

が、すでに先験的に主張されているからでも、データベース消費的に媒介されているからでもなく、たんに、「ある信頼性」において、その発言者を、信用しうるという、プレ・コンテクストにおいて、他のプレーヤーが解釈していたからであり、その主張に、その主張者によって付加されていた「理由」の言明を、合理的と受け取ったから、ということになるに過ぎない。
つまり、ここにおいてあらわれるのは、一貫した「推論」的レベルでの、合理性だけであって、「感覚」や「欲望」といった、なにか

  • オリジナル

な起源から導かれるような、

  • 内在的な原始性

を説明のツールとして必要としない、ということなのである。
一見すると、確かに、「感覚」や「欲望」は、デカルト以来の「新哲学」にとっての、「オリジナル情報」であり、これによって、あらゆるものを「説明」するという方向は、世界をシンプルにして、見通しをよくされるように思われるかもしれない。
しかし、本当にそうなのか。もっと言えば、実際に私たちは、そのように「行動」しているのか、ということなのである。私たちが、実際に何を行っているのか、と見たとき、むしろ、上記のような、ブランダムの言う「言語ゲーム」は見通しのいい様相を示しているように思われる。というのは、圧倒的にこちらの方が、

  • 情報量

が少なく、あらゆることが整合的に説明できているように思われる。
もしも、人間が「感覚」と「欲望」といった、つまり「動物」のレベルにおいて、コントロールするしか、他に方法がないとするなら、私たちの未来の「監視社会」は、絶望的なディストピアの様相となるであろう。それは、実際に、動物園の動物が、檻に入れられて、飼育されているように、人間を「管理」する形でしか、ソリューションはない、ということになる。
しかし、そうではなく、なんらかの「言語ゲーム」のレベルにおいて、その「合理性」が担保されるのならば、今と同じような「啓蒙」の可能性を見通すことは、少なからず、一つの選択肢となりうるであろう。
人間をどちらの「モデル」で考えるのかは、そういった意味において本質的だと理解できるであろう...。