<ハルチカ>シリーズの謎

ハルチカ>シリーズは、よくできている。それは、チカとハルタの関係についてである。
ミステリは、ある「謎」に関係して成立する。その「謎」は、私たちがこの人間世界の「全て」を知ることができないことに関係している。なぜ「全て」を知ることができないのか? それは「視点」に関係する。自らが眺めている「視点」は固定されている。ということは、その視点から見えている風景は、必然的に、さまざまな障害物によって、その「裏」が隠されている。これを、地球規模の表面に広げれば、その意味が分かる、というわけである。
しかし、この「不可能性」問題を、ある種の「ヴァーチャル・リアリティ」によって解決しようという可能性が提示された。それが、インターネットである。世界中のあらゆる「視点」からの動画を、ネット上に「公開」することによって、擬似的に、その「全て」の「視点」を、

  • 検証

できるようにする、というわけである。もちろん、こんなことは「不可能」である。そもそも「全て」の「視点」というものの意味が分からない。おそらく、なんらかの「近似点」のようなものによって、代替され、それぞれの「近似点」から、「中間」を「補完」するものになるのだろうが。しかし、私が言いたいのは、そういう意味ではない。これは、あくまでも

  • 後から検証する

ための何かにすぎない、わけである。ここで大事なポイントは「なぜ、後から<検証しよう>と思うのか」に関係している。
つまり、ある「謎」は、「なぜ<その謎>は解かれなければならないのか」の原因を欠いているのだ。
この構造はどこか、アドラー心理学に似ている。
チカは普通のJKである。普通という意味は、彼女には「動機がある」ということである。つまり、「普通」に私たちが日常において考えるような動機が彼女にはある。しかし、ここで重要なポイントは、わざわざ「普通」と断っていることである。つまり、彼女はいわゆるミステリ小説に登場する主人公である「推理マシーン」ではない、ということを意味している。ではなぜ、そんな彼女が主人公なのか、が問題となる。
その答えがハルタである。ハルタは、言わば「特殊」な立ち位置に置かれている。ハルタの三人の姉は自由奔放な家庭内での「お行儀=作法」によって、ハルタは、とことん、「女嫌い」がインプリントされてしまった存在として登場する。よって、彼は、この高校生活という青春の重要な舞台において、大きなエネルギーを消費させられる「恋愛作法」から免れている存在として現れる。つまり、彼には

  • 余計な脳の空白地帯

が用意されていた、ということなのである。これが「推理マシーン」である。「普通」の人なら、日常においてフル回転でエネルギーを消費している、ある脳の部分が彼においては、常に使われない。よって、ここを動かすことによって、「謎」の解決に近づく。
しかし、である。
問題は、どうやったら「そこ」が動くのか、に関係にしている。なぜ、彼の「そこ」は動き始めるのか? 私は上記で、「なぜ、後から<検証しよう>と思うのか」と言った。つまり、そうするには「動機」が必要なのだ。なぜ「推理マシーン」は動き出すのか? それを動かすには、なにか「トリガー」が必要なのであり、それが、チカになっている、というわけである。
チカとハルタは、小学生まで、家が隣同士のところに住んでいた幼馴染だったことも関係して、毎日一緒に遊んでいた。そこにおいては、常に、チカがハルタに「ちょっかい」を出して、プロレス技をかけたり、パンチ、キックをするのはチカの方だった、という。ハルタの口癖は、チカが「元気だけがとりえ」というものであり、だいたいこの口癖がでると、チカのハルタへのブロレス技、パンチ、キックがハルタに炸裂する

  • 慣習

になっている。

「成島さん、もし入部してくれたら、わたしたちとうまくやっていけるかな」
気にしていることをつぶやいた。
「さあ。仮にうまくやっていけなくても、オーボエだけでも部室に置いていってもらおう。あれって楽器の中でも値が張るんだ。中古楽器屋に売れば----」
ハルタの背中を蹴った。
(「クロスキューブ」)

退出ゲーム (角川文庫)

退出ゲーム (角川文庫)

ようするに、ハルタの「動機」の「トリガー」はチカである。チカの日常には「動機」がある。いや、動機「だけ」がある。しかし、彼女はなぜ自分には「動機」があるのかと問わないのだ。
この関係を、ハルタは「フロイト的マシーン」と呼び、チカは「アドラー的マシーン」と呼んでおこう。ハルタには、「原因」を推理する能力が、そのスペックの余剰のために存在しているが、そもそも、自らのその「推理マシーン」を動かし始めるための「動機」を欠いている。他方、チカには「普通」の「推理マシーン」しかない(つまり、「推理マシーン」がない)かわりに、自らの内面から次々と湧いてくる「動機=目的」にあふれている。
つまり、この二人のペアが「成立している」ことによって、あらゆる「事件」は動き出す...。
(こうやって考えると、<氷菓>シリーズと似ていますねw)

自分にいいきかせる言葉のはずが、自分でうまく呑み込むことができない。そんな虚ろで、弱々しい声音を、山辺コーチの口からはじめて聞いた。胸にこたえる光景だった。心もプライドもズタズタに折れたひとの姿は、女子バレーボール部時代に何人も見てきた。
どうしよう。
どうすればいい?
無意識に唇を噛み、下を向いた。困ったときのハルタ頼みだ。<いまどこにいるの?>と彼にメールを送ってみた。携帯電話を閉じてぎゅっと抱く。返信がほしい。すぐほしい。お願い、来て。
(「ヴァルプルギスの夜」)

惑星カロン

惑星カロン

この構造は、例えば、チカと芹澤直子との関係においても反復される。芹澤直子は地元の名士の子どもであり、小さい頃からクラシックに傾注してきたプロ志望の存在であり、彼女の視点の範疇に、吹奏楽部はない。なぜなら、子どもの頃からエリート教育で特化したトレーニングを積んできた子どもにとって、吹奏楽部は、あまりにもレベルが低く、大人と子どもの差だからだ。
芹澤にとって、吹奏楽部にコミットすることは、彼女がプロになる上で、なんの利益にもならない。
しかし、そうだろうか?
そもそも、人生は長い。そして、青春は短い。芹澤が子どもの頃に選んだその道は、途中で挫折するかもしれない。そう考えたとき、なぜ、チカは吹奏楽部を復活させようと、あれほど、努力を傾注しているのかの「動機」が気になってくるわけである。

恭しく受け取ろうとすると、ひょいと意地悪く上げられ、お預けの恰好になった。
「ありがとうは?」冷たさを感じさせる声が、芹澤さんの唇を割った。
「お......」わたしは口をぱくぱくさせる。
「お?」芹澤さんが眉を顰めた。
「お願い。入部してっ」
わたしは芹澤さんの胸に抱きつき、彼女が「な、ななな、なんなの?」と慌てふためき、成島さんがわたしを一生懸命引きはがす。「穂村さんのそういう節操のなさが好きよ」
「いままでの説明はんだったんだ」片桐部長が嘆息して芹澤さんに謝った。「......悪かったな。さっきまでお前の噂話をしていた」
芹澤さんがやや遅れて反応し、険しさを眉間に刻んだ。なにかをいいかけて、それをやめた。顎をつんと上げてから、わたしに顔を近づけてくる。
「一年B組の穂村さん?」
蛇に睨まれる蛙の心境を味わいながら、わたしは首をちぎれるくらいに縦にふる。
「去年の一年間、死にかけた吹奏楽部はあなたを中心にまわっていたわ」
「よく見ているね」
(「スプリングラフィ」)

よく考えてみれば、プロになるかならないかなど、どうでもいい、くだらない話だ。しかし、世の中には、そういった道をなぜだか分からないが、ある時、選んでしまった奇特な人がいるだけなのである。
チカの良さは、そういった「事情」を考慮しないことである。彼女は、純粋に、芹澤に自分を助けてもらいたい、と言っているだけなのだ。芹澤のような優秀な人がもしも、吹奏楽部に加わってくれたら、自分たちの演奏は今以上のレベルの所に行けるかもしれない。彼女はそのことしか考えていない。
しょせんは、高校の部活である。それが成功するか失敗するかは、それに参加しようと集まってくれたメンバーの心掛け次第と言うしかない。しかし、なぜ彼らは集まったのだろう? それは、チカが集まってほしい、と呼びかけたからだ。なぜ?

せっかく芹澤さんが気づかせてくれたのに、わたし、だいじょうぶなんだろうか?
下手がどんなに努力しても駄目なんだろうか?
このままだと、本当にみんなの足を引っ張るんじゃないだろうか?
成島さんやマレンの顔が浮かんできて、ひとり洟をすすって目元を拭う。
「らしくないわね」
いきなり譜面を後ろから取り上げられて、ふり向く。
「誤解しないで。約束を思い出したから、仕方なく一緒に戻ることにしたの。あなたを見ていると心配でしょうがないわ」
そこに芹澤さんが息を切らして立っていた。彼女が隣の空いている席に遠慮なく座ってきたので、わたしは思いっきり抱きついた。
(「初恋ソムリエ」)
初恋ソムリエ (角川文庫)

なぜ、清水南高校の吹奏楽部のメンバーは、チカの呼び掛けに集まってくれたのか? それが「青春」と言うしかないであろう。彼らは、それぞれに事情を抱えたメンバーであった。彼らが入学した最初に吹奏楽部に入部しなかったことには、それ相応の「理由」があった。そんな彼らが、結果としてではあるが、入部した。なぜか? 言うまでもない。チカの呼び掛けに集まりたかった。
「青春」のその瞬間は、短く、はかないものであるが、彼らの心の中には、長く、その経験が残るわけである。芹澤は影ながら、吹奏楽部を再興しようとしていたチカの行動力に感心していた。そんな彼女が、チカを助けたいと思うことは、当然のことだったのだ...。