自明くん

自明性の哲学というものがある。それはどういうものかというと、その代表的な人がハイデッガーということになるが、ようするに、フッサール現象学に連なる一連のものと考えるといい。
以前、形式論に対して、意味論はトートロジーの形式になっている、といったことを書いた。つまり、

  • 意味:事象 --> 正しいかどうか

形式論には意味がない。それは数学の公理系を考えればいいのであって、その場合、「それ」と指示することに意味がない。逆に

  • それを満たすもの全てが「それ」

と言うしかない形になっていて、そういう形によって以外に、「それ」ということについて考えられない構造になっている。
他方意味論においては、何が正しいかは、究極的には、なにかの「外部」性によって担保できない。意味論は、なんだか分からないけれど、自らの内面から湧き出してくる

  • 自明なまでに正しく自分には思われる

という「現前性」によって、定義される。ようするに、その「担保」を行うために、外部性によってその「独立」した「正しさ」を保証しよう、というのが、科学の基本的な姿勢であったはずなのに、意味論では、常に「自分」に帰ってくる。
一瞬一瞬において、私たちは「それ」が正しいかどうかを判断している。しかし、そう判断するとき、私たちはその客観的な法則性によって、自らと「デタッチメント」することによって保証しない。その一瞬一瞬において、私たちが求められているのは、その

  • 生き生きとした

明らかさなのであって、それはつまりは、自明性なのである。どう考えても、目の前に人がいるように思える。だったら、それが「真実」と考えていい。
こういったハイデッガー的なスタイルは、どういった方向に進むのか?
まず、「常識的」とか、「明らか」とか、そういった言葉を、頻繁に使うようになる。しかし、そもそも、数学における「自明」とは、クリアということである。つまり、いつでもその証明を書き下すことができる。それは、今まで行ってきた教科書の記述から分かるから、というものなのであって、むしろ、まったくの意味が逆転しているわけである。
ハイッデガーやフッサールにおいて、「自明」とは、

  • 自分にとって明らかに思える

と言っているだけであって、数学における「クリア」のような、今までの教育の文脈を考えれば、だれでも証明を書くことが別にそれ以外のアイデアもなく可能だ、と言っているに過ぎないわけで、証明が

  • なくても

正しいことが示されている、というわけではないのである。
この「自明」の哲学は、ヘーゲル哲学に似ている。ヘーゲルにとって、そもそも、あらゆる「理論体系」は矛盾を含んでいる。つまり、この世に「正しい(=完全)」なものはない。あらゆるもんは、どこかに矛盾を含んでいる。しかし、だとするなら、どうやってその真理性を担保すればいいのか? ヘーゲルにとって、その完全なる実現は不可能ということになる。しかし、不可能であるからといって、それが

  • 進歩しない

ということを意味しない。しかし、そもそも矛盾した体系をもっていて、それの「進歩」というのも、意味が分からないわけである。ではそれに対して、ヘーゲルがどういった解答を与えたのかというと、

  • 世代

である。ヘーゲルは、完全な体系の保証をまぬがれるために、「世代」論を重視する。世代論とは、「今の時代は、どういった時代なのか」を考えることである。しかし、その

  • 根拠

はどこから調達するのか? まさに、自らの「自明性」である。ある「世代論」を行うとき、それは自分が

  • 分かっている

なにかを考えることと考える。自らが「今の時代はこれがはやっている」と感じるかどうかが全てとなる。これに対して、リチャード・ローティは、その「世代」がなんなのかを判断するのは

  • 一部のエリート

だと言ったわけである。それが「天才」であり、「芸術家」である。ローティは、それは天才にしかできないと言った。そして、その一部の天才、エリートが、世界を「作っていく」と言った。つまり、この天才によって、世界のブレークスルーも始まる、と言った。
自明であること、世代論(若者論)、天才。
こういった言葉は、ハイデッガーの自明性の哲学で続いている。この特徴は非科学的であることを認めていながら、一部の特権的なエリートが「すべてを善くしてくれる」ということが前提になっている。まさに、パターナリズムというわけである...。