アニメ「あおかな」の謎

アニメ「蒼の彼方のフォーリズム」は確かに最終回を迎えて終わったのであるが、一体、これはなんだったのか、といった感慨をもたれた方は多かったのではないだろうか。
どういうことかというと、ようするに、このアニメは昌也が主人公ではなかったのだ。間違いなく、そうだった。昌也は、原作で言うなら、先生の各務葵(かがみあおい)のようなモブキャラ的位置に、最初から最後まで、さがらされていた。
これは、なんなのだろう?
うーん。
早い話が、昌也はまったく「キャラ立ち」していない。こいつは、そういえば、最初から最後までいたけど、なんだったのだろう? という疑問がぬぐえない、描かれ方になってしまっている。
不気味なのである。
なにを考えているかわからない。
わからないだけでなく、回りにいる明日香やみさきや真白にしても、まったく、興味をもっていないように見える。彼女たちは、まったく昌也に関心をもっていない。確かに、彼女たちの中心にいるはずなのに、だれも彼に注目していない。
ようするに、原作とアニメ版は何が違うかというと、アニメ版は、原作から

  • 恋愛属性

が完全に除去されたわけである。つまり、こういうことである。

  • マイナス属性:恋愛
  • プラス属性:選手全員の<スポーツ快楽>の側面での満足感

アニメ版は、原作にあった全ての恋愛が、注意深く「除去」されている。このことは、決定的にこの作品のある魅力的な側面を破壊してしまった。しかし、あえてそうしたことによって、今度は逆に

  • すべての選手の<スポーツ快楽>に対する満足感

が実現可能になっていた。このアニメ版の結果は、ある意味において、明日香ルートと、みさきルートとのすべてのルートの

  • スポーツ的到達点

へ辿り着かせたわけで(スポーツ的達成としては、全ルートの「攻略」ルートを通った)、ということは、スポーツ的には、明日香も、みさきも、

  • 満足

しないわけにはいかないことになっている。つまり、実際に、明日香ルートも、みさきルートも

  • 通った

と言っていいような、合わせ技の内容になっている。ところが、そういった結果になったのにも関わらず、逆に不思議なのは、なぜか、昌也との恋愛関係に発展しない、というところなのである。
なぜなのだろう?
アニメ版は、原作にあった「恋愛的熱狂」を丁寧に「除去」したことによって、

  • すべてのルートの「ちゃんぽん」

が可能になった、ということなのである。しかし、そのことによって、このアニメは、なにか奇妙な「キメラ」を見せられているような、不気味さを内包することになった。
その最も代表的な存在が「みさき」であろう。
みさきは原作において、まさに、自らの実存に関係する存在として昌也を「発見」する。ところが、アニメ版においては、その謎の

  • フラグ

が最終的に回収されない、というアクロバティックな展開となる。つまり、確かにお互いの「過去」をお互いが知ることになりながら、なぜか、それが「お互いのことであった」というところまで気付かないまま、最終回を迎える。
これはなんなのだろう?
つまり、作者はこの「フラグ」を回収されるわけにはいかなかったのだ。なぜなら、そうなったら原作の恋愛展開を迎えないわけにはいかなかったから。それを行わないことは、あまりにも不自然だったから。
それによって、何が起きたか?
みさきの「挫折」は、なにか別のものによって、「解決」されなければならなかった。原作の実存的な存在としての昌也の「発見」に、匹敵する何かが必要とされた。
それが

  • 明日香

なのである。アニメ版の「みさき」の「視線」の先には、常に、「明日香」がいる。彼女は明日香に「恋」をしている。それくらいに、明日香の「存在」を認めるわけである。
アニメ版では、最終回の前で、みさきは乾沙希(いぬいさき)に負けるが、ある意味において、彼女を自分のフィールドの「ばちばち」にひきずりこんで負けたという意味では、彼女の勝ちだったと言えなくもない。みさきは自らの満足のために戦う選手だったわけだから、夏の大会のような「ショック」は受けない。
しかし、それ以上に、自分が負けた乾沙希に明日香が、勝利したことを、普通に賞賛している。それは、最初から明日香を「人格」的に認めている彼女の姿勢が反映されているわけである(この辺りは、原作の明日香ルートに似ていなくもない)。
結局、どういうことになるのだろう?
この作品の原作の魅力は、みさきルートにあった。はっきり言って、みさきルート以外は、凡庸な物語でしかない。つまり、みさきの「情念」にあったわけであろう。実際に、人気投票でも、みさきルートは、どう考えても、明日香と昌也がひっつくのが自然な前半のストーリーであったのに、その「自然さ」がどうしても認められない、みさきの恋の「執念」であり、彼女の過剰さが、この論理破綻をしてまでも、最後まで暴走せずにいられなかった、みさきルートの魅力だったはずである。
しかし、だからこそ、昌也は「不要」になったわけである。
もしも、みさきの影の部分、ドス黒い内面の汚い部分を描かないのなら、この作品は、こういった「きれい」な明日香ルートを基本線にした、凡庸な話に収斂するわけである。つまり、頭のいい人が論理的に「整理」すれば、必然的にこういった

  • 人の上辺だけをなぞる

「たてまえ」の物語に必ずなってしまう。
どうして、こうなったのだろう?
おそらく、アニメ版制作陣に、あまり「みさきルート」への愛情がなかったんじゃないだろうか。この作品を「みさきの作品にしよう」という情熱がなかったわけである。そういったドロドロしたものを書くのは、「日常系」ではない、と思ったのかもしれない。ぶっちゃけて言ってしまえば、

  • みさきに共感できなかった

人たちが、アニメ版を作ってしまった。みさきルートのみさきは、非論理的で、彼ら制作陣には、説得的に思えなかったのであろう。
それによって、まったく「凡庸」な日常系アニメになってしまった。
ここになにかの可能性を感じていただけに、残念である...。