木村草太『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』

今回の安保法制の問題は、なんといいますか、多くの人の心の導火線に火をつけてしまったようで、さまざまなところで、ヒートアップをなされているようなのだが、どうもその行動の、私たちがむしろ答えてほしい問題とのズレっぷりが、なんなのかな、というやれやれ感が強いわけであろう。
どうしてこうなるのだろう?
おそらくは、憲法九条というものが、戦後の日本政治の一つの「アイコン」のようなものになってきたために、なんらかの「作法」のようなものが、党派を問わずにできあがっている、ということなのではないだろうか。
というわけで、ここで、今までの議論を私なりに整理をしてみたい。

では、個別的自衛権合憲説は、どのようなロジックによるのか。
憲法13条は「生命、自由及び幸福追及に対する国民の権利」は「国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定める。つまり、政府には、国内の安全を確保する義務が課されている。また、国内の主権を維持する活動は防衛「行政」であり、内閣の持つ行政権(憲法65条、73条)の範囲と説明することもできる。とすれば、自衛のための必要最小限度の実力行使は、9条の例外として許容される。
これは、従来の政府見解であり、筆者もこの解釈は、十分な説得力があると考えている。

これは、木村先生の意見ではあるが、ネットでこの木村先生の意見を「無理筋」とか非難していた人がいたわけだが、上記の引用でも指摘されているように、これは

  • 今回、安倍政権が「解釈改憲」を行う前の<政府見解>

だということなのですね。
ここで一つ、重要なポイントを指摘したい。それは、

  • 私たちは、あらゆることに対して、「そもそも論」を問われることはない。基本的に、私たちが考えるべきは「理由」である。

これは、非常に重要なポイントである。まず、今回の安保法制において、何が起きたのかというと、政府が従来の見解を「変える」と言い始めたことである。だとするなら、私たち国民が一次的に関心をもつべきなのは

  • なぜ政府は従来の見解を変えたのか?

である。しかし、政府はそれに対して、十分な説明を今に至ってまで、できていない。
そういうふうに言うと、戦後の最初は自衛隊だって憲法違反だ、という「政府見解」を「解釈改憲」したんじゃないのか、と言うわけであるが、これは違うわけである。それは、上記の引用にあるように、政府は、いずれにしろ、なんらかの「理由」を説明していた。この説明に納得しない国民がいることを、私は別に否定はしないが、いずれにしろ、今回は、それに対してさえ、なんの説明もない、ということなのである。
もう一度繰り返すと、今回の問題は、政府の新解釈改憲が「トリガー」だということなのである。そうであるから、国民の一次的な議論の相手は、政府になるわけである。
ここのところ、何度も私は、ロバート・ブランダムの推論主義について言及しているが、この立場からしても、重要なポイントは

  • 理由

にある。政府が自ら「なんらかの変化をします」と宣言した。そうしたら、国民は「なぜですか?」と問う権利がある。それに対して、政府は明示的に答える義務がある。ところが、政府は今に至っても、それを説明できていない。
まず、これが基本的なフレームだ、ということである。
政府がその理由を「説明できない」ということが、直接的な、この文脈での「憲法違反」の意味となります。
国民の対話の相手は、政府であり国家であるわけですが、政府であり国家が説明責任を果たせていない、という状態を私たちはここで「憲法違反」と呼んでいる。
では、考えてみましょう。
この場合、どうなれば、この問題は解決されるでしょうか?
おそらくそれは、政府であり国家が、合理的な説明ができないなら、いったんひっこめて、合理的な説明の範囲になるものを出し直すしかない、ということになるであろう。
なぜか?
それは「正当性」に関係している。以前、政府であり国家であり自民党は従来の見解が、「正しい」としていたにもかかわらず、今回、従来の見解を「憲法違反」として、今回の新しい見解が「正しい」として、従来は「間違っていた」と言い始めた。しかし、だとするなら、以前の自民党憲法違反だった、ということになるであろう。私たちは、そういった政党の

  • 正統性

を考えられるであろうか。これは、以前までの歴代の天皇は「間違っていた」が、今回からの天皇は「正しい」と言っているのと変わらない。
ここで注意しておきたいポイントがある。それは、今回の解釈改憲ではない、前回の解釈改憲において、当然、憲法学者を始めとして、多くの違憲の意見を言った人はいるし、今もその立場を貫いている人たちがいる、という事実である。つまり、国民であろうと、憲法学者であろうと、そういった「意見」をもつ人は常にいつの時代にもいるし、もしかしたら、そういっった意見によって、憲法改正が行われる日が未来のいつかに来るかもしれない、というわけである。
ようするに、上記の議論はそういった事態が起きることを否定していない、ということなのだ。
これに対して、現在、二人の論客が、アクロバティックな見解を主張している。
まず、伊勢崎賢治さんは、新九条論を主張している。それは、明示的に憲法に、専守防衛を書くことで、南スーダンのPKOといったような、明らかな憲法違反を止めるべきだ、という考えからである。今の九条が、あまりに「強力」なために、自衛隊は海外の危険な地域での平和維持活動はできない。やるための手足を縛られているのだから、自衛隊員が「かわいそう」だ、というわけである。
もう一人の論客が、井上達夫先生だ。彼の主張は、九条削除と憲法改正による徴兵制にある。井上先生の持論は、九条はだれが読んでも、自衛隊と矛盾している。つまり、今すでに、自衛隊をもっている時点で、憲法違反だ、というところに重点がある。
さて、みなさんはどう思われるであろうか?
私が考えるポイントは、ようするに、伊勢崎賢治さんの新九条論も、井上達夫先生の九条削除&徴兵制も、

  • 上記の議論と矛盾していない

ということなのである。ようするに、お二人さん、勝手に「がんばってください」という話で終わってしまうのだ。
なぜか?
上記で、ロバート・ブランダムの推論主義について言及させてもらったわけだが、私たち国民が今、「対話」をしている相手は政府であり国家だ。その国家からの返答が今のところ、

  • 説明不十分

だ、という判断になっている、という段階だ。だから、今回お解釈改憲を撤回しろ、と国民は政府に要求している。
これが「筋論」である。今、ボールがあるのは政府の方で、説明できない、という時点で負けなのだ。
伊勢崎賢治さんの新九条論は確かに合理的ではあるが、以前、田岡という軍事評論家が言っていたわけであるが、では

  • 実際に、日本の自衛隊と、中国の軍隊が衝突したときに、どうなるか?

と考えると、それなりに局地的には「日本の自衛隊は<勝つ>」と言うわけである。ようするに、確かに中国の軍隊は巨大ではあるが、中国の国境線は、インドの方まで延びるような「膨大」な広さがあるわけだから、日本だけに戦力を向けられない。そう考えると、それなりの対応能力はあると考えられる。伊勢崎さんの心配は原理的には、理解はできるが、例えば自衛隊の半分が壊滅するというような、そういった事態を、PKOで想定することは非現実的であろう。つまり、伊勢崎さん自身が言っているように、これは

といったレベルの延長にあるもの、として有識者の意見として重く受けとめる必要がある、ということであろう(そういう意味では、野党が政権を奪った暁には、さっさと、PKOは撤退で、専守防衛に徹する、ということになるであろう)。
もう一人の井上先生の議論は、最も最近の議論として『憲法の涙』というインタビューがある。
先にも言ったように、最初の解釈改憲の頃から、今の自衛隊が九条違反だという意見は、一定数いたわけであり、今もいるわけであり、そういう意味では、井上先生は何も新しいことを言っていない。そして、そういった政治的意見をもつことに対して、誰も文句を言っていない。だとすると、なんで井上先生は怒っているのだろう?
井上先生は勝手に、政治運動を始めて、憲法改正政党を作って、実際に、憲法を変えようとされればいいのではないでしょうか。そして、井上先生がそういった運動をされることを、だれも反対していない。今の憲法が認めている、言論の自由であり、政治結社の自由なわけでしょう。
しかし、私が理解できないのは二つあって、井上先生が今の自衛隊憲法違反であることを主張されるのであれば、もし井上先生が憲法学者なら、まず主張するのは、自衛隊の解散ということになるでしょう。だって、憲法違反だと言っているのですから。ところが、井上先生はそう主張しない。つまり、そこには「政治的な差配」があるわけで、もうすでに純粋な憲法論ではなくなっている。
もう一つは、井上先生の、九条は「特別」に自明に、自衛隊違憲なのだから、これを合憲と言っている憲法学者は「間違っている」と言う主張であろう。つまり、「間違っている人」というレッテルは、一つの人格攻撃になっているわけで、学問的な議論ではない。自明だから、自分が正しいというのは、相手もそれなりの理由をもって、自説を主張しているわけだから、水掛け論にしかならないわけであろう。
そういう意味では、井上先生の主張は、例えば、イスラム教で、盗みをしたら、手首を切り落とす、という法を思い出させるわけである。確かに、コーランには、はっきりとそう書いてある。だとするなら、どんなに今の私たちの感覚からして、野蛮に思われるとしても、やらざるをえないのではないか。これに対する、中田考先生の解釈は、まあ、みんなが盗みをしなければいい、といったような主張であったわけだが、まあ、基本的には、運用でなんとかする、という考え方だったと思うが、いずれにしろ、ここまではっきりと書かれていれば、やらないわけにはいかない、ということなのであろう。
今の自衛隊憲法違反なら、自衛隊を廃止するしかない。しかし、井上先生の「政治的立場」は、自衛隊の廃止に反対であり、徴兵制を主張しているくらいなのだから、自衛隊がたとえ憲法違反であれ、存在していることは、

  • たとえ国民をだましてでも

達成すべき「目的」だということになるのではないのか。ようするに、私には井上先生が何を主張しているのかが、今だに分かっていないのだ。そもそも、なぜ井上先生は「憲法違反は悪い」と言っているのだろう? だって、井上先生の意見は、徴兵制なのだから、憲法違反だろうがなんだろうが、徴兵制を実現すべきなんじゃないのか。それに対して、憲法が今どうなっているなんて、どうでもいいんじゃないか。
井上先生が「徴兵制」を主張されるのは、今。この瞬間において、徴兵制がなければ「大変困ったことになる」と考えられているからであろう。だとするなら、徴兵制がたとえ憲法違反であろうとも、今、実現しなければならない、ということなんじゃないのか。それが「必要」だと主張するということは、こういうことなわけであろう。
井上先生は、憲法論をやりたいのだろうか? 自分の政治的信条を披瀝したいのだろうか? どっちなんだろう?

集団的自衛権はなぜ違憲なのか (犀の教室)

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