中見利男『吉田松陰と松下村塾の秘密と謎』

戦前の歴史に、2・26事件というものがある。総理大臣や、その他の各大臣が、軍の青年将校に殺された事件であるが、この衝撃的な事実は、驚くべき話だというのもあるし、こんな恐しい事件がどうして、この日本で起きたのかと思われるかもしれない。
しかし、例えば明治維新においては、掲題の本の文脈にのっとるなら、そんなものではすまないわけであろう。というか、日本の「平和」の歴史は、血ぬられた人殺しの歴史なのであって、それはまさに

  • ゲーム

のように当時の人たちには理解されていた。

ここで改めて彼の二十一回猛士という号に注目したい。
これは松陰が獄中で見た夢のなかで神様に告げられたものだという、ではなぜ二十一回かというと、その理由はこういうものである。
まず名字の杉を十八三に分解すると合計二十一になる。さらに吉田の吉を十一口、田を十口に分解し、これを組み合わせると二十一と回(口口で回)になることから二十一回猛士を名乗ったわけだが、問題は猛士の方である。
実は、この号、尊敬する孟子から来たものだったが、その一方で自分は生涯にわたり二十一回の暴挙を実行するという凄まじい宣言でもあった。

ここで松陰が言っている「猛士」を、なにか「形だけ」の、かっこつけて言っているだけの何かだと思ってはならない。松陰は本気なのである。本気で「暴挙」を、私はやる、と言っている。それは、本当の

  • 暴挙

なのであって、やると言いながら、実際はやらない、ヘタレ連中と自分は違う、と松陰は言っているわけである。
例えば、若い頃の有名な密航計画というものがある。しかし、普通に考えて、こういったことを当時の各藩は自分の藩の忍者にやらせていた。言うまでもなく、松陰は忍者である。こういった行為が、長州藩の命令なしで行われていたわけがない。

これについていえば、藤堂藩(現・三重県)の忍者・沢村甚三郎はやはり藩命によって、ペリー率いる艦隊の船上パーティーに参加し、パン、タバコ、便せんなどの文物を盗み出しているが、当時の各藩は生き残りをかけて米国艦隊に対して、一斉にスパイ活動を開始していたのである。

徳川幕府の代々の将軍は、どう考えても不自然な死に方をしている人が多い。このことが何を意味しているかといえば、ようするに、確かに、徳川の二百年の歴史は戦争のない「平和」な時代であったが、そのことは、つまりは

  • 権力の頂点

において、一切の権力ゲームが収斂されていた、ということを意味するに過ぎない。各派閥は自分たちに有利な「神輿」を、なんとかして、権力のポストに送り込もうとするわけであるが、これを成功させる一番簡単な方法は、忍者に、敵の有力者を暗殺させればいいわけである。
陰で行われる有力者の暗殺は、その「証拠」が残らない限り、敵側も何も言えない。これが「平和」ということの意味なのであって、この権力ゲームが嫌なら、戦争をすればいいわけだが、今は戦国時代ではない、というわけである。

また一方の長州藩は忍者と縁が深く、毛利元就は世鬼一族という忍者を養っており、背後には忍者集団がいたのだが、そのライバルの尼子藩も忍者集団を組織し、これに対抗していたという。その後、江戸時代になって長州では天保七年(一八三六)、三人の藩主が立て続けに亡くなっているが、これも江戸老中・梨羽頼母が忍者に命じて毒殺させたからだ、という。

言うまでもなく、松陰は幼くして、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、こういった「英才教育」を幼い頃から受けた「エリート」である。
彼を大きく変えたのが、アヘン戦争での中国の欧米に対する敗戦であり、欧米の黒船による日本の脅威を、水戸学派の啓蒙活動を通して血肉としていったところにあるわけだが、この水戸学派の特徴は、ようするに

にあった。つまり、外敵の脅威が問題なのはいい。しかし、今の天皇北朝の流れであるのにもかかわらず、水戸学派にとっては、南朝が正統だと言っている。この矛盾はどういうことなのか?
掲題の本では、それは、つまりは、水戸学派は、自藩の中に、南朝の系譜の「天皇」をかくまっていて、いずれ時期を見て、こちらを正統とする、ということとして理解された。
確かに、これであれば、筋は通る。もちろん、その南朝の「天皇」という系譜は無茶苦茶うさんくさいわけだがw
例えば、尊皇攘夷という言葉があるが、この言葉は普通に考えると、意味不明である。なぜなら、実際に今、天皇北朝ではあるがいて、その命に従っている、征夷大将軍徳川幕府がいるのだから、基本的に今の通りでいい、というふうになるわけである。
しかし、それを変えなければならない、と言うためには、なにか「違う」動機がなければ、筋が通らない。つまりは、尊皇攘夷とは、「北朝から南朝に変える」ということを意味していると考えれば、確かに、なにかを変えなければならない、というそのパワーの意味が明確になる、ということになるであろう。

考えてみれば、そもそもスパイの重要性を説いていたのは、吉田松陰その人なのだから、これは実に皮肉な話だ。というのも彼は、かつてこのような主張を展開してるのだ。
「戦をする上で間諜を用いるのは、ちょうど人に耳目があるようなものだ。耳がなければ何も聴けないし、目がなければ何も視ることはできない。もし戦に間諜を用いないならば、それは単に視かつ聴くことができないということではすまされないのだ。こちらが間諜を用い、相手もまたこれを用いるのは、戦のつねである。だから、戦の巧みな者は、わが間諜の用い方の周到でないことを憂えても、相手が間諜を用いることを恐れはしないものだ。ところが現在の状況はそうではないらしい。大いに間諜を相手側に放つべきなのに、わが国事が洩れることを心配してそれをしようともしない。相手がこちらに放った間諜は、これをうまく引き留め、逆にこれを利用すべきなのに、こちらの国情を知られることを恐れてそれもしない。ああ、なんと誤った考えではないか。もしも我国力が充実していれば、たとえ相手側が百の間諜を放ったとしても、おうすることもできはしない。かえって威圧感を与え、その謀り事を十分阻むことができるのだ」『幽囚録』

上記の引用は重要である。つまり、松陰にとって、忍者だとか、諜報だとか、暗殺だといったことは「当たり前」のことなのである。これがあるから、戦争に勝つ、と言ってもいい。それは、徳川の二百年の歴史において、絶えず続けられてきたルーティーンだと言ってもいい。偉い人は、偉くなったがために、殺される。忍者に。そして、殺される度に、新しい首にすげかえられる。
大事なポイントは、あまりにも当たり前に、偉い人は暗殺される、というところにある。
つまりそれが、偉い人の宿命だ、と言っているわけである。
上記の引用における、松陰のアイデアは、そういった暗殺ゲームを、世界中の敵も味方も行っているし、事実、それらは成功しているが、そうやって歴史は進むのだ、という所にポイントがある。つまり、

  • やった者勝ち

と言いたいわけである。やったら、天下を取れるが、相手もそれをやってくることは心の片隅に忘れないでおけ、と。
しかし、だとするなら、「天皇」って、なんなのだろうね。
松陰は、水戸学派が水戸藩に、南朝天皇をかくまっていること、長州藩でも長年、かくまってきた、南朝天皇の大室家がいることを知り、この家系と懇意になるわけであるが、早い話が、松陰は北朝天皇を暗殺して、その大室家の若い長男を天皇の地位に置くことを画策したわけだが、そもそも、この寅吉は南朝天皇の血筋でもなんでもない。普通の平民の「養子」でしかなかった。

そもそも大室弥兵衛(一八一三年六月十四日 ~ 一八八六年)は妻ハナとの間に二人の子どもができたが、二人とも早逝した。
一方、先の地家作蔵と興正寺基子の間に長女、長男・寅吉、次男・庄吉、三男・朝平が生まれた。しかし、この作蔵と基子が離婚したため、長男・寅吉と次男・庄吉が基子が引き取り、長女と三男・朝平を作蔵が引き取った。やがて基子が大室弥兵衛の後妻となり、虎吉は大室寅吉、庄吉は大室庄吉となった。
基子は一八五五年に死亡し、大室弥兵衛の息子となった虎吉がのちに大室寅之祐になったという。
もともと地家作蔵には名字がなく、海賊の息子であったが彼は地家吉左衛門の養子となって地家姓を名乗ったといわれる。
つまり大室寅之祐には完全に南朝の血が流れていないというのである。

寅吉は力士隊の護衛を受けて、なんと萩の杉家、すなわち吉田松陰の実家に預けられ、松陰の母・杉滝子によって、しつけ教育を受けることになったという。

おそらく、松陰の考えていた「兵学」にとって、例えば、忍者は自らの命を捨てる覚悟で、相手の偉い人を暗殺するわけであるが、問題はどうやって、そういった

  • 命を捨てる

行為を、自らの手駒に行わせるのかの「動機」を最も考えたのではないだろうか。
上記における、外国の脅威は、確かに問題ではあるが、言うまでもなく、黒船がすぐの日本の破局を意味するわけではない。日本の破局は、それなりの長いスパンで予想される。これに対して、松陰がまず最初に考えた対抗策は、忍者によって、欧米の「偉い人」を殺せばいい、ということになるであろう。
これさえできれば、ある意味において、無敵だと言える。
しかし、これができるためには、自分が命を捨てる覚悟で、暗殺をやれ、と言って、行動に移せる連中を調達する必要がある。
おそらく、これを可能にする「理屈」を、松陰は、おそらく、水戸学派に見ていたのであろう。
水戸学派によれば、南朝天皇は、日本の「正統性」を調達できる。だとするなら、南朝天皇は、「日本で一番偉い」し、「日本人なら誰でも命令に従う」と考えられる。
つまり、こういう理屈である。
まず、松陰は、長州藩の保護にあった、大室家の養子の寅吉を、明治天皇にすげかえるために、その「英才教育」を、家族に行わせる。そうすることで、寅吉は、基本的に、松陰には頭が上がらない「恩義」を受けた、と考えるようになる。
そして、実際に、孝明天皇を暗殺し、孝明天皇の子どもの、明治天皇になるはずだった、睦仁親王を暗殺して、寅吉とすげかえた後は、松陰が「やりたい」ことを、寅吉の口を使って

  • 言わせる

ことで、松陰自体の命令には、なんの「権威」も感じない連中でも、天皇の命令とあらば、身命を賭けて戦わせることが可能となる、というわけである。
なんて恐しい、と思うかもしれないが、これが「戦争」であり、「兵学」ということの意味なのであろう。
明治以降の、閔妃暗殺などを介して行われた、日本の朝鮮半島の植民地化の経緯などを見ても、ようするに朝鮮王朝の偉い人は、次々と忍者みたいな連中に殺されて、国家の体裁を維持できない。これが日本式の

  • 徳川200年の暗殺術

みたいなわけで、大衆の「平和」の陰では、偉い人の地位は次々と暗殺されて、首をすげかえられるので、次々と養子を迎えないと、そもそも、家が維持できない。
まあ、なんだ。ずいぶんと、ひどい世界観だなあ、と思うかもしれないが、こういう「リアリズム」が当たり前の中で生きていた人たちに、現代の生温い倫理を説いても、なかなか理解してもらえない、ということなのであろう。
ここで、もう一度、この前引用した個所を確認しておこう。


朝廷を憂慮し、それゆえ諸外国に怒りを覚える者がいる。一方で、諸外国に怒りを覚え、それゆえ朝廷を憂慮する者がいる。私は幼い頃から家学である山鹿流兵学を継ぎ、兵学を講じる中で、外国からの侵攻は国難でありこれに怒らぬわけにはいかないと知った。その後に、これほど日本のすみずみまでが外国勢力に侵食されている理由を考え、国家の力が衰えた要因を知り、とうてい今日における朝廷の憂うべき状態が、一朝一夕にしてもたらされたわけではないことがわかった。けれども、どちらが根本でどちらが枝葉であるかという問題については、いまで確信を得ることができないでいた。ところが去る八月、ある友人に教えられることで、目を開かれるように初めてこの問題について理解した。これまで朝廷の行く末を案じていたのは、みな諸外国に怒りを覚えることからそのような考えが起こったのである。この時点でもう本丸を取り違えており、本当の意味で朝廷の行く末を案じているとは言えなかったのだ。いま貴君の文章を読むに、はじめに世界の情勢から語っているが、その意図するところは、本末を取り違えていた八月以前の私と大差ないものと見える。

安政三年(一八五六)十一月、当時水戸にいた弟子の赤川淡水(佐久間佐兵衛)へ宛てた手紙である。この文章を歴史研究者の源了圓が「コペルニクス的転回」(『徳川思想小史』)と呼んだことは有名だろう。

吉田松陰 天皇の原像

吉田松陰 天皇の原像

上記の引用で、注目すべきところは、「八月以前の私」は、ずっと

  • これまで朝廷の行く末を案じていたのは、みな諸外国に怒りを覚えることからそのような考えが起こった

と正直に言っていることであろう。つまり、外国との戦いであり、敵との戦いの「ため」の

  • 手段

として、今まではずっと、天皇のことも考えていた、と正直に言っちゃっている場所だ、というわけなのだ。日本が世界と戦うのに

  • 天皇をうまく利用すれば

なんとかなるんじゃないか、と。
おそらく、松陰にとって、日本中の人々を自らの命令に従わせる「正統性」を、唯一、天皇にだけ見ていたのであろう。だから、もしもその天皇が、自分が子どもの頃から「教育」した、うまく自分の言うことに従わせられる子どもにしたてられれば、結果として、日本中の人々を、まさに自らの忍者のように操れる、と考えたのであろう。
こういった認識の延長から、なぜ上記で、大室寅吉が、ただの底辺大衆の「養子」でしかない、なんの、南朝の血とも関係のない存在であるのにも関わらず、この少年を天皇にすげかえようとしたのか、が分かるであろう。
つまり、彼の認識において、そもそも血のつながりなど、なんの意味もないからなのだ。つまり、どんなに血が繋がっていても、どんどん、忍者に暗殺されるのだから、そんなことにこだわっていること自体が無駄なのだ。どうせ偉くなってしまった連中は、暗殺される。だったら、最初から、

  • ニセモノ

でいい。ニセモノに、日本中を頭の下げさせておけばいい。彼の「目的」は、そうすることによって、日本中の人々を自らの意のままに、命を捨てる、戦力の駒にさせることなのだから、その他のことは、どうでもいいわけである。
こうやって見てくると、そもそも

  • 欧米の黒船の脅威

というものが、どこまで本質的なのかは怪しくなる。なぜなら、上記にあるような、吉田松陰的タクティクスは、そもそも、徳川「平和」時代に、すでに、確立している、とも言えるからだ。
どういうことかというと、例えば、欧米が攻めてきたとして、おそらく、松陰的タクティクスが行うことは、

  • 敵の懐に忍者を送り込む

ことになるであろう。そうして、欧米の大統領や将軍や、そういった偉い人たちの食事に毒を混ぜたり、まあ、忍者が要人を次々に殺す、というわけである。しかし、そんなことをやられたら、欧米だって困るであろう。
そこで、どうなるか?
松陰と欧米の国々は、なんらかの「バーター」を結ぶことになる。お互いにとってのメリットになることをやることで、お互いの要人を殺さないようにする。まあ、これが薩長が、イギリスやアメリカの軍事力をバックに、徳川幕府をぶっつぶしたメソッドなわけであろう。
つまり、この時点において、「欧米の黒船の脅威」は、むしろ、その「脅威」を利用して、自らの権力の源泉にさえしてしまっている。もっと言えば、「欧米の黒船の脅威」を

  • 使って

国内の権力闘争を勝ち上がる。うまく、欧米との「バーター」が成立すれば、徳川幕府も自分に逆らえなくなるし、天皇もそう。すべてはバーター。
確かに、こう言われると、吉田松陰メソッドは、まるで「無敵」のように思われるかもしれない。しかし、その当人の松陰自身はどうか?

事実、幕府から松陰処刑の相談を受けた長州藩は「斬首止むなし」と幕府に伝えているのである。

吉田松陰メソッドは、その「リアリズム」において

  • 完成

していたがゆえに、彼は幕府からも、長州藩からも、「死刑」が

  • 妥当

だと判断された。そのことは、最初にふれた「暴挙」を行うと言っていた時点で、この運命は決定していたのであろう...。

吉田松陰と松下村塾の秘密と謎

吉田松陰と松下村塾の秘密と謎