猪瀬直樹 東浩紀『正義について考えよう』

よく考えてみると、つい最近まで、東京は石原慎太郎という、まるで、アメリカのトランプのような奴が、4期も務めていたわけで、その後も、石原の下で副知事をやっていた、猪瀬直樹による「傀儡政権」だったわけで、なんとまあ、恐しい時代だったんだな、と思うわけだが。
いずれにしろ、石原は、死ぬまでに、中国と戦争をやりたいと公言していたポピュリストであり、そのために、尖閣諸島と東京が買おうとしたような、日本国家を私物化して、危機に陥れることを画策したような奴なわけで、よく、日本は石原が都知事の間に、外国との戦争を避けられたな、と思って、胸を安堵するわけである。
あーあ。
ほんと、石原政権が終わってよかったわ。もうそれしかないわけで、おそらく同じようなことを、アメリカの方々も、トランプに対して思っているんでしょうけど(まあ、ブッシュで悲惨な戦争を、アメリカはイラクでやってますから、余計に深刻なんでしょうね)、そうは言っても、日本も安倍ちゃんですからねw まあ、変わらないっちゃあ変わらないわけでw
しかし、その石原政権の間に、少なくとも言えるのは、ある雰囲気が変わってしまったわけである。つまり、東京は

  • 右寄り

になった。それは、東京都のトップがそういう人なわけだから、そのトップの下で育つ子どもが、右寄りになるわけだし、なにしろ、

が右寄りになった。パブリックな場で、人付き合いをするような、そういった人たちは、人前で、右寄の立場を表明しないと、陰で白い目で見られることが分かっているだけに、過剰に、右寄りの立場を表明するようになり、東京は、そこらじゅうで、まるで産経新聞が乗り移ったんじゃないのかと思われるような「ネトウヨ」を大量生産した。

東 その点については、僕は団塊世代の年齢がカギになると思っています。団塊世代は "心情左翼" がすごく多い。この世代が退場したら、状況はかなり変わるはずです。有権者としての退場はないけれど、言論人としての退場はある、いまは、哲学者の内田樹さん(1950~)、作家の高橋源一郎さん(1951~)、社会学者の上野千鶴子さん(1948~)といった左翼知識人が活躍していますが、彼らに続く人は下の世代にほとんどいない。団塊世代の影響力がなくなっていくと、バランスはかなり変わると思います。団塊ジュニアはすでにかなり右寄りだし、それより下の世代ではかなりマイナーでしょう。メディアはまだ左翼の知識人が欲しいからそういう人が目立つけれど、影響力はどんどんなくなっていくと思います。

早い話が、小林よしのりが右傾化した時代も、ちょうど、石原都知事の時代と重なるわけで、東京の右寄りが、本来であれば、東京の

  • 異常

として理解される文脈であったはずであるのに、その中を「生きた」東浩紀さんになると、もはや、その「距離」を自らで理解することはできない。東京の右寄りは世界の右寄りで、小林よしのりを「真面目」に批評対象だとして相手にするわけだが、それは実際に、彼の

  • 主張

小林よしのりと「重なっている」ことを示しているわけで、ようするに、彼の

  • 東京の常識

という「自明性」が、小林よしのり石原慎太郎の言っているような「トンデモ」が、いわゆる、世間一般のリベラル知識人にとっても「受容可能」ななにかだ、といった判断になっていくわけだが、むしろ、そういったように解釈する東浩紀さんの

  • 異常

さが、その世間と少しずれたKY感が浸透している、ということなのであろうが、彼はそもそも、エリート主義のリベラリストだと自称するわけだから、自分を分からない世間が馬鹿くらいな感じでいるのであろうし、彼のとりまきの信者は、本人に直接そういったことを言うのは遠慮するという、なんというか、裸の王様感がハンパない、という感じなのであろう。
ここのところ、私は、吉田松陰であり、福沢諭吉であり、そういった延長で、現代における、例えば、石原慎太郎の問題であり、そこからの延長の、猪瀬直樹であり、東浩紀さんであり、宮台真司さんであり、また、小林よしのりであり、といった人たちの考えている、一言でまとめるなら

  • 国権主義

の問題を考えているわけであるが、私はここにある一連の何かを考えるときのキーワードになるものが、

  • 天皇
  • 科学的思考 vs 宗教的盲信

なのではないか、と思っている。つまり、彼らは、この二つの扱いの間で、なんらかの揺れを続けているわけであるが、その揺れがなぜもたらされるのかというなら、

  • エリート主義(=真理主義)

が、どうしても、明確な立ち位置を選ぶことを許さない。どうしても、曖昧な立ち位置においてでしか、自らの立場を維持できない、ということなのではないか。

なお、橋下は皇室を罵倒し続けた石原慎太郎という男ともつながっていた。
石原は言う。

天皇が国家の象徴などと言う言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だと言う言い分と同じ程、笑止で理の通らぬたわごとだと言うことになる、と言うより問題にもされなくなる、と僕は信じる。(『文藝春秋』一九五九年八月号「あれをした青年」)

石原は自分が何を壊そうとしているかをはっきり述べている。それは皇室だ。

石原 三島さん、変な質問をしますけど、日本では共和制はあり得ないですか。
三島 あり得ないって、そうさしてはいけないでしょ。あなたが共和制を主張したら、おれはあなたを殺す。(「守るべきものの価値」)

石原はきわめて戦後民主主義的なポピュリストであり、卑劣なアナーキストである。こうした人間を支持してきたのがわが国の「保守」論壇である。そのカラクリについても、はるか昔に三島は見抜いていた。
三島は自民党に所属しながら党の批判を繰り返す石原に対し、「貴兄の言葉にも苦渋がなさすぎます。男子の言としては軽すぎます」(「士道について」)と批判した。
三島が武士のロジックを持ち出したことに対し、「時代錯誤だ」との批判もあったが、問題はそこではない。
三島っは、内部告発や権威の否定を「あたかも手柄のようにのびやかにやる」石原の軽薄さを批判したのである。その後の石原の人生もすべてコレですね。
悪いのは官僚だ、アメリカだ、中国だ、古い自民党の体質だ、というわけです。
こうして大衆の薄っぺらいナショナリズムルサンチマンに訴える。
三島の死後、石原は三島にネチネチと嫌味を言う一方で、都合がいいときだけ親密な関係をアピールした。
石原と橋下をつなぐキーワードは「アナーキズム」「反日」である。

上記のように、石原慎太郎は、はっきりとした、天皇に対する違和感を表明し続けてきたわけであるが、この場合、注意がいるのは、石原は「表向き」の一切の、天皇制批判を行っていない。それは、

  • 政治としての機能

としての天皇の重要性を否定しているわけではない。むしろ、天皇は元首になるべきだし、そういった「機能」という意味では、日本は今以上に天皇中心の国家になるべき、と考える。

2006年、「祭司たる天皇」というタイトルのエッセイの中で、天皇について、「天皇こそ、今日の世界に稀有となったプリースト・キング(聖職者王)だと思っている。」「天皇は本質的に宗教というよりも、宗教的しきたりも含めて日本の文化の根源的な資質を保証する祭司に他ならない」という見解を示している。そして、神道が日本人の感性の表象であるとし、過去の歴史の中で天皇が政治に様々な形で組み込まれ利用されてきた一面にも触れながら、「それらの時代を通じて天皇に関わる事柄として日本人が一貫して継承してきたものは、神道が表象する日本という風土に培われた日本人の感性に他なるまい。そして天皇がその最大最高の祭司であり保証者であったはずである。私がこの現代に改めて天皇、皇室に期待することは、日本人の感性の祭司としてどうか奥まっていただきたいということだ。」と書き綴っている。
石原慎太郎 - Wikipedia

ようするに、石原が否定しているのは、例えば、戦前における、皇国思想における

  • 神格化

におけるような、天皇の「宗教的側面」なのである。石原は天皇の「政治的側面」は、その有効性においても、非常に重要視している、と解釈できる。
例えば、古事記日本書紀にあるような、天皇の神話時代の記述を「事実」と考えたような「教育」が、戦前は行われたわけだが、石原が戦っているのは、そういった

  • 合理的

な近代的態度と、「つじつま」があわないような「宗教」としての天皇の側面を生理的に嫌がる。
例えば、石原は猪瀬直樹を在任中に副知事にして、ブレーンとして活躍させたが、普通に解釈するなら、猪瀬のような人は、どちらかというとリベラルな実務家の印象が強いわけが、そういった必ずしも、自分と主張の合わない人での、能力があれば採用するのは、荻生徂徠のようなプラグマティストの側面をあらわしている。そういった部分は、確かに、福沢諭吉に似ていると言えなくもない。

安川寿之輔 ちょっと分かりやすい話で脱線すると時間があれなんですが、ある日弟子をつれて御宮に、参拝じゃない。彼は、神を信じない。懐からお賽銭を出して、放り込む。だから、弟子たちは、先生が、ガランガランとやってこうする[お祈りのポーズ]んだと思ったら、福沢はお賽銭だけ放り込んで、お尻向けて、おーなかなか、下見ると、いい森だなあ、なんていうことをやってるから、えー先生、なんですか、お賽銭を入れて、と言ったら、阿呆か。阿呆か、っていうのは僕の創作です、俺が神を信仰していないことは、お前ら知っているじゃないか、だから、でも、ここに書いたように、「馬鹿と刀と宗教は、ちょうどよき取り合せならん」で、神社、仏閣を、ふるいおこさなければいけないから、お賽銭は入れるんだ。だけど、神を信じないから、俺は手を合わせない。やはり、そこは立派と言えばね、信じもしないくせに、お賽銭あれして、なんか[お祈りのポーズ]する人よりはね、ちょっと、先を急がなければ。いや、いずれにしても、自らは信じない宗教を愚民を、愚かな大衆を、なだめるために百を越す論説を書いているけれども、そういうイメージは福沢について、みなさん、まったくないですよね。
[一万円札から福沢諭吉の引退を勧告する」安川寿之輔講演会5 - YouTube

ようするにどういうことかというと、ここには二つの認識のズレがある。
一方の天皇を否定する側面において、天皇のもつ非科学的な宗教であり、呪術的な側面は、福沢で言えば、西洋の科学技術の徹底した応用の肯定の態度からは、どうしても認めることができない。そういった「迷信」に迷わされている限り、この世界を支配できない。
しかし、他方の天皇を肯定する側面において、まったく違った側面から、これを主張する。つまり、エリートによる社会支配の実効性を考えたとき、大衆は馬鹿なんだから、彼らには、宗教の呪術を与えておいた方が

  • 支配がしやすい

という意味で、徹底して天皇制賛成を表明する。これが

  • エリート主義

である。
エリート主義は必ず、顕教密教に分かれる。
顕教においては、自ら率先して、大衆に「天皇を信じない連中は死ぬべきだ」ということを言いながら、まさに、自らがまっさきに範をたれることで、大衆が天皇への信仰を逃れられないようにする。
密教においては、天皇がもっている呪術的で、宗教的な側面は、そもそも「神を信じていない」のだから、その「たたり」を恐れるわけもなく、ようするに、内心においては、本気で天皇を信じている大衆を馬鹿にしているわけである。
エリートにとって、大衆とは「支配する相手」でしかなく、なぜ大衆にエリートが「本当の心情」を吐露しなけばならないのかが分からない。エリートは大衆を「操作」するためなら、だますことも、嘘をつくことも、ごまかすことも、なんでもやる。むしろ、やらないことがない。唯一やらないことは

  • 本当の自分を見せない

というくらい、というわけである。
しかし、さ。
よく考えてみると、これほど人を馬鹿にした態度ってないんじゃないですかね。
自分は一見、信じている「ふり」をするけれど、心の中では、舌を出していて、「こんなの信じている大衆は、頭悪い連中」だとか、腹の中では、相手を見下しているわけでしょう。外向きの態度は一見、立派なんだけど、心の中では、天皇を馬鹿にして、天皇を「差別」している。ようするに、前回書いた、吉田松陰天皇を「道具」として利用することを考えているのと、同じ延長線上にあるわけなんですよね。

猪瀬 ディズニーランド的な世界がすでに完成してしまっているからね、日本では永らく、大きなことを語る文脈を持てない歪な国語教育になってしまっている。例えば、「大東亜戦争は正義の戦争だった」という大義名分があったけれどどうも正義ではなかったのではないか......?
そういう自省が我われのなかにつねにある。同時にアメリカ、連合軍、マッカーサーが、オマエらが唱えていた正義は罪深い悪行だったという判決を下した。こうして日本人が元来もっていた正義観との接続が難しくなってしまった。
幕末の日本に黒船が来て、欧米列強が振りかざしていた弱肉強食の世界に巻き込まれた日本人は生存を脅かされた。帝国主義の時代は凄まじい時代だった。日本人は生き残るために、富国強兵で国家の予算の半分くらいを軍事費に使って、日清・日露戦争で危機を乗り切った。別に戦争をやりたくてやったのではなく、戦わないと生存を脅かされてしまう状況だったから。日露戦争も「勝った勝った」というけれど、あれはいいタイミングでアメリカがタオルを投げてくれたから、TKOみたいなかたちでなんとか勝ったにすぎない。明治43年(1910年)の日韓併合も、南下してくるロシアをとりあえず抑えなくてはいけないという理由で実施した。欧米の帝国主義により、アジアが植民地化されていくドミノ現象のなかで唯一日本が歯止めをかけた。それが正義だった。その脅威のなかで、昭和に入ると戦艦大和をつくることになった。しかし、戦後の日本人はそういった脅威を忘れてしまった。
日本には本来、正義があった。途中まで繋がっていた正義が一回消えてしまって、いまではその正義と繋げる文脈を見つけにくくなってしまっている----それは、我われ日本人に歴史の知識がないことも含めて、それから70年もの、かなり手遅れな時間がたってしまった。
東 正義を回復するためには、どうしたらいいのでしょうか。

上記の猪瀬さんの議論は、そもそも、石原が「ロジカル」だという文脈とつながっていて、これが猪瀬さんの主張なのか、石原の主張の代弁といった側面があるのか、いまいち分かりづらい書き方ではあるけど、ようするにこれは

  • 戦前は「正義」だったのか?

という、最近のネトウヨ歴史修正主義(=リビジョナリズム)を肯定する形で語られている。これに対する東さんの返しは、基本的に否定するものではなく、むしろ、暗に、戦前の

  • 正義

を自明視していることを臭わせている。
こういった姿勢は、おそらく、宮台さんなども内心は同じで、おそらく、吉田松陰福沢諭吉あたりは、ほぼ全肯定なのではないか。そして、最終的な太平洋戦争でのアメリカにケンカを挑んで、ボロクソに負けた軍人に対しては、その「頭の悪さ」には、一定の侮蔑感はあるのだろうが、基本的に、東浩紀さんも宮台真司さんも、戦前が悪いとは思っていない。
こうやって見てくると、吉田松陰福沢諭吉石原慎太郎猪瀬直樹東浩紀宮台真司に共通しているのは、なんらかの「本音」を、腹の中に隠している、そういった回路をくぐることによって、自分が思っていないこと、信じてもいないことを

  • 他人を操作するため

に平気で口にできる「エリート主義=国権主義」だと言えるのではないだろうか。

東 どうだろう。すこし違和感があります。単純に読後の印象としても、『完全自殺マニュアル』は『動物化するポストモダン』とちがって----と著者自身が言うのは屈折しているかもしれませんが----もうすこしじめっとしているというか、陰影がある本だと思うんです。文学的と言ってもいい。マンガ家の山田花子の自殺についての記述など、随所で生きづらいひとのための本であることが強調されている。「ボーダーライン」の始まり「メンヘラ」「コミュ障」といった言葉がつぎつぎ登場する。九〇年代後半からゼロ年代にかけての心理主義の空気を予感している。
われわれの生なんて動物性に還元される唯物論的なモノにすぎないというのは、どちらかというと浅田彰の思想でしょう。『動物化するポストモダン』は、あきらかに浅田さんの影響下にある。鶴見さんも宮台さんももうすこし陰影がある。『完全自殺マニュアル』と『制服少女たちの選択』は、動物的な身体を選んでいるひとたちを応援しているように見えながら、じつは生きづらく傷ついた陰影のある人間をターゲットにしている。それはいまにいたるまで浅田さんにはまったくない視点であり、これこそが八〇年代と九〇年代の差異のように思います。
(「平成批評の諸問題 1989-2001」)

ゲンロン2 慰霊の空間

ゲンロン2 慰霊の空間

ようするに、上記の6人は、思想家というより

  • 美学

の人たちなんだと思うんですよね。上記の引用において、東さんは『動物化するポストモダン』のとき、自分は浅田彰だったと言っているわけだが、普通に浅田さんの昔の対談なんかも見ても、十分にウェットな、かなり、左翼的な感情論を言っていた人なわけで、東さんは勝手に自分の美学を、浅田さんの中に、見出しているだけなんだと思うんですよね。
動物化するポストモダン』なんて、読めば分かりますけど、徹底して、ウェットな感情を隠して書いているから、意味不明なんですよね、おそらく、そういった態度が科学的で客観的だと思っているんだろうけど、単純に、

  • これが、表象哲学だ(キリッ

って、自分の美学に酔っているだけにしか見えないわけでしょう。東さんはそういう意味で、自分のそういった「かっこいい」とか思っていることを、なによりも優先して生きている人みたいな印象で、ちょっと、ナルシシズムの人なんじゃないですかね。まあ、平気で原発は美しいとか書いちゃう人なわけで。
動物化するポストモダン』には、いろいろなアニメやエロゲや小説などの名前は出てくるんですけど、基本的にその「内容」に対して、なんらかの「評価=ウェットな感情=価値へのコミットメント」を公言している個所がない。ようするに、それぞれの作品の

  • 表象

を巡って、何かを言っているにすぎない。それって、「ある他人は、こんなことを言っていて、別の他人は、こんなことを言っていて」と、自分の意見じゃなくて、他人の意見を紹介しているだけ、みたいな記述で、ようするに、自分が変な人と思われるのが嫌、みたいな書き方なんですよね。もっと言うと、そうやって、他人の価値をたんに「紹介」しているだけの「文章」だから、最後は、

  • 自分という人間はどんな人間か

みたいな、自分の「私的な=プライベート」なことを書いて、行間を埋めるしかなくなる。
つまり、最初の方から言っている、顕教密教の関係のような構造になっていて、顕教の「極端」と、密教の「極端」しか書けなくて、その間の

  • 価値

の話がないから、逆に言うと、その価値に至るまでの、自然な心の流れというか、そういった「ロジック」の部分を書けないから、ただの内容のない事実羅列の辞書のようなものになって、それを読まされている方からすると「So what?」でしかない。つまり、読む側が、なんでこんなものを今、自分は読まされているんだろう、といったような不快な気持ちにさせられる。なんで、この一つ一つの話題がここにあるのか、その論理的帰結が、その種明かしがないから、ようするに

  • 作者に読まされている(=なにかの印象操作をされている)

といったような、疑心暗鬼がわいてくる。おそらく、デリダの哲学に絡めた、なんらかの「パロディ」ネタがちりばめられているんだろうけど、読まされている側にしてみれば、「それでなに?」「そんなことやってなにが楽しいの?」って、まあ、一般向けで遊ぶような場面ではないよなあ、という感じだろうか。結局のところ、言いたいことのない人の書く文章を読まされるのは、単純に苦痛だし、生きる上で時間の無駄だ、という話に落ち着くというわけである...。

正義について考えよう (扶桑社新書)

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