斎藤令介『原始思考法』

掲題の本は、もう何十年も前の本であるが、この本の最初に書かれているように、村上龍の『愛と幻想のファシズム』などの、一連の彼の発言に、非常に大きな影響を与えたことが分かる形になっていて、実際、掲題の著者と村上は何年かの間、一緒に狩りをする旅行を行っていたことが記されている。
そういった延長で、例えば、柄谷行人は当時、村上龍と対談なども行っていて、村上は柄谷さんの『探究』などの作品を、しきりに褒めていたような記憶があるわけだが、そういった文脈において、例えば、柄谷さんにとってのルソーの「自然人」の評価と掲題の本にあるような、ある種の「原始人」に対する評価というのは、なんらかの関係があったのかな、といったことが気になったりするわけである。
まあ、いろいろな考えの人がいると思うけれど、私は基本的に進化論って、駄目なんじゃないかと思っている。それは、ようするに、欧米の思想の文脈で言えば、進化論というのは、

の別名のようにして現れているわけで、基本的にその代替物としての役割を演じている。
例えば、こんなふうに考えてみればいい。
アメリカの大統領が、今度、トランプになったとして、彼の手元には、地球を何百回と破壊可能な原子爆弾のミサイルのスイッチが、毎日握られることになる。さて。彼はある日、昨日、自分のことをボロクソに言った人間たちを殺したいと思って、そのスイッチを押した、とする。すると、世界は原子爆弾の飛び交うハルマゲドンと化して、一瞬にして、人類は、この地球上からいなくなった。

自然保護運動家たちにとって都合の良い自然保護運動は、人間の保身のためのエゴイズム以外の何物でもないのだ。なぜならば、悠久の歴史を持つ地球にとって、地球が砂ばくになろうが、オゾン層が穴が開き紫外線が降り注ごうが、関係のないこと。一瞬の人間の歴史などまるっきり関係ないからである。地球が砂ばくになれば砂ばくに適した動物が栄え、紫外線で人間が絶滅しても紫外線に強い動物が栄えるだけだからだ。

同じようなことは、地球に隕石が降ってきたり、まあ、なんでも考えられるであろう。というか、そもそも動植物の、さまざまな「種」の絶滅は、ほとんど

  • 偶然

としか言いようがない、つまり、各個体が「優秀」か「劣等」かなど、まるで関係ない原因で起きてきたと言ってもいいことが分かっているわけで、それと同じことが、人間で起きないと思う方がどうかしているわけであろう。
日本において、進化論が流行したのは、戦前のエリート学生においてであったわけであろう。デカンショと言って、デカルト、カント、ショーペンハウエルというわけで、まあ、実存主義とか、遺伝子の優秀さとか言いたいのだろうが(それが、エリートたちの特権性を担保するとか言いたいのであろう)、基本的に自由主義というのは、誰が何をすることも妨げない、というわけであるし、別に優秀な人だから、人類が上記の意味で生き残れるなんらかの「発明」をする、といったものと関係なく、

  • さまざまな人のさまざまな活動の「どれか」が、たまたま、人々にとって役に立つ

というに過ぎず、そこにおいては、なんの「遺伝子」の優劣など関係なく、私たち人類が生き残るかどうかについては

  • たんに「偶然」によて、滅びるときは滅びるし、生き残るときは生き残る

というだけの意味しかないのであれば、もう単純に、人間全員をたんに「保護」する、人権を守るという、非常にシンプルな方向しか現実的ではない、ということになるのではないか。
ようするに、遺伝子の細かい差異によって、なんらかの「現象」の差異があろうがなんだろうが、そういったものは、結局は、各個人の「人生」として現れるという形によって結果するわけで、つまりは、そういった「結果」は、それがなんだろうと、各個人にとっては、目の前にある何かであるわけだから、その結果を引き受けることになるわけであろう。
つまり、そこにおいて、あらゆるバッファーが吸収されるということなのだから、ひとまずは、社会的な不安定要素は、そこで相殺される。
だとするなら、私たちがむしろ考えるべきはなんだ、ということになるのだろうか?

情報は、求める人がいれば常に誇大に語られ、そして情報提供者の尺度で語られるのだ。このことを情報を集める者は忘れてはならない。それゆえ全ての情報は、自分ないしは信頼のおける仲間によって情報の過去と現在を確認し、未来を予測する必要がある。

現代は情報社会である。そもそも。遺伝子が優秀か劣等かというったことですら「情報」として流通する。ところが、この「情報」には、最初から、信頼性の担保がない。どんな人も、自らの「ポジション・トーク」から、自分に有利になるように語られるわけで、だとするなら、むしろ私たちが考えるべき問題は、遺伝子の差異がどうのこうの以上に、

  • そういった「情報」をどうやって「人間にとって役立つ」レベルで純粋化を維持し続けられるのか

の方にあると考えるべき、と思われるわけである。つまり、求められていることは、どうやって「さまざまな相互批判」の

  • 空間

を自由な場所として維持できるか、その「空間の純粋さ」を維持し続けられるのか、にあると。そう考えるなら、求められていることはむしろ、

  • だれでも、なんでも言える

ということであって、そのことだけが唯一、私たちが「戦える」ということを意味する。もしも人間が生き続けるとするなら、上記にあるような、さまざまな「偶然」による滅亡以外で、それを避けることは、この空間の維持にしかない。こういうことになるのではないか(歪められた言論空間は必然的に、ハーメルンの笛吹きによる、絶滅に導かれる...)。

原始思考法

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