斎藤環・佐藤優『反知性主義とファシズム』

私にはどうも、女性アイドルが歌う歌の歌詞を、男のプロデューサーが書いているという事実自体が、少し、信じられない印象をもっている。そういう意味で、AKBの歌の歌詞を、秋元プロデューサーが書いているわけで、そういうものを買っているファンの人たちって、そのことになにも思わないのかな、と違和感を覚えてしまう。
しかし、よく考えてみると、日本のアイドルの歴史というのは、そもそも、そういうものであったような気もしてくるわけである。
つまり、私の中でうまく言葉にできていないのだが、こういった女性アイドルと、その回りを固める男性スタッフたちとの関係が結局のところなんなのかが整理されてこないと、秋元の書く「女心」を、AKBが歌って「それで?」ってだけで終わってしまわないのか、なにかその

  • 嘘くささ

が、どこかしら怒りのようなものを感じるわけである。
アイドルとは、そういう意味で、

を「売って」いる、と言っていいものだと思っている。つまり、アイドルを「消費」する男たちは、そのアイドルの「性的価値」を、まさに、買っているわけであり、そういう意味では、男性が、AVを買うとき、そのAV女優を「買って」いる、という感覚と近いものとして扱っている。
しかし、そういう意味でいうなら、私たちは本当に「女性」を買っているのかは、なんとなく怪しい印象を受けるわけである。つまり、私たちは「秋元の歌詞」を買っているのであって、秋元の歌詞の「女のセリフ」に欲情しているのであって、つまりは、秋元に欲情しているんじゃないのか? つまり、アイドル自体のなんらかの「ホモセクシャリティ」が気になってくるわけである。
例えば、アニメ「けいおん」は、京アニという、基本的に女性のスタッフを中心にして作成されたものとして、一つの一定のクオリティをもったものとして評価されたわけだが、しかし、言うまでもなく、原作は男性が作っていたわけであろう。つまり、このことは何を意味しているかというと、漫画の原作から、アニメ制作に至る段階において、なんらかの

  • 根本的な態度の変更

がここにはある、と解釈していることを意味している。つまり、漫画という原作と、アニメは、まったくの別物と考えている、と。
原作は、料理でいえばレシピのようなもので、それと、実際に出来上がる料理は、同じではない、というわけである。
この対比は、非常に分かりやすいわけで、ようするに、女性アイドルが存在することに対して、私はなんの違和感もないのだが、だったら、その「女性」という表象を売るのなら、基本的に

が行うのが、「自然」なんじゃないのか、ということなのだ。そこは難しい話をしているわけじゃなくて、そっちの方が単純に、

  • 直接

なんの媒介もなしに、消費者の元に届くんだから、伝言ゲーム的にも、その情報量も多いだろうし、感動し価値をもたらすのではないか、と。

佐藤 あと最近、アニメで戦艦が女の子になったりするのがあるじゃないですか。
斎藤 ブラウザゲームの「艦これ」ですね。「艦隊これくしょん」ってやつです。
佐藤 あれはどういう風に見たらいいんですか。
斎藤 艦これは擬人化モノと言って、すごく伝統があるんです。昔から戦闘機や戦車の擬人化ってあるんですけど、たとえば、隼や零戦も擬人化したりします。
艦これの前にヒットしたのが、「ガールズ&パンツァー」という茨城県大洗町の町おこしに使われたアニメです。アニメの中では、大洗の沖に空母が碇泊していて、その空母に女子校がある(笑)。華道や茶道のように、戦車を使った武士道の「戦車道」があるという設定で、女の子が学校で戦車に乗って戦う。戦うと言っても、殺傷能力はありません。このアニメがすごい人気を集めまして、実際町おこしができちゃったわけです。自衛隊が協力して大洗町に最新鋭戦車を派遣したりとかして、すごい盛り上がったんですよ。この現象が県外に飛び火しちゃったんです。艦これは「ガールズ&パンツァー」の系譜に属するものです。艦隊を女体化して、キャラクターにしちゃう。
こういう擬人化モノのいいところは、オタクのフェチシズムにすごく適応が高いところです。宮崎駿零戦を擬人化したみたいなもので、「戦闘機も好きだけど、女も好き」、つまり、オタクには、テクノロジーも好きだけど、エロス(萌え)も追及したいという性向があるわけです。

なんというか、劇場版のガルパンは、こういったアニメ化作品としては記録的な興業を今も続けているわけであるが、いずれにしろ、そのガルパンを、それなりに、理論的な側面から、大手マスコミで批評している知識人って、ほとんどこの斎藤環さんくらいなんじゃないだろうか。
確かに、ガルパン大洗町と非常に強い関係をもちながら、メディアミックス展開をしてきた。しかし、そのことに対して、多くの知識人は

  • 嘲笑

をもって扱ったわけですよね。というか、今でもそうだけど、知識人はアニメを馬鹿にしている。芸術として、アニメを消費しているオタクを馬鹿にしている。アニメについて語るときは、ネタとしてアニメのオタクを馬鹿にするものとして触れる程度であって、決して、自分の価値をコミットさせようとしない。そういう意味において、日本の知識人というのは卑怯だと思うんですね(つまり、アニメを自分の「気持ち悪い」ネタとして、手段として利用しているだけ)。
それに対して、斎藤環さんは、ほとんど「全肯定」してくる。そういう意味で、とても変わった人だと言えるのかもしれない。

斎藤 あはははは(笑)。ただ、象徴的なのがコミケコミックマーケット)です。コミケは延べ人口五〇万人が毎年集まってると言われていて、あそこに集まるのは、オタク密教というか、相当濃い層が来てると考えていいでしょう。オタク活動している人の中でも、とりわけ同人誌を作ったり、売ったり買ったりするタイプの人が集まります。濃いオタクというのは全体の一割程度ですから、その一〇倍と考えると、オタクは五〇〇万人はいるだろうちう概算が出てきます。
佐藤 その五〇〇万人はファシズムに対する耐性を持ちそうな人たちになりそうですか?
斎藤 なると思います。なぜかというと、彼らはセルフカルトなんですよ。「俺が一番偉い」とは血ぐんですけど、「俺以外の奴に全面的に帰依するなんてありえない」という自意識の人々ですから。
佐藤 戦前の例で言うと、ダダイスト辻潤が思い浮かびますね、伊藤野枝の最初の旦那さんで、伊藤野枝大杉栄のところに走った後、辻潤は世の中をぶん投げて、尺八だけを吹いていた。しかも、戦時体制に一切協力せずに、アパートで餓死しました。
斎藤 オタクの人たちが、そこまで高潔な生き方をしているとは思えませんけれど(笑)。
佐藤 「俺に触るな」っていうのが、基本的なラインです。
斎藤 「俺に触るな」と言いますか、オタクは内輪でつながりたいっている感覚があるんです。だから、必ずしも孤立は生まない、オタクは意外と社交的で、趣味が合う連中とは、おどよくつるんでいたいという志向がすごく強いんです密着は絶対に嫌なんですけど。
佐藤 猫の集会みたいな感じですね。
斎藤 オタクは猫が大好きですから。
佐藤 猫の集会でも一定の距離を取りながら、みんなで座ってるじゃないですか。それで、傍に寄っても知らんぷりをするっているのは好意を持ってる証拠ですし。
斎藤 猫に近いところはあると思います。一定の距離感で集まりたいという感覚です。コミケなんてすごいですよ。もう本当に立錐の余地もないくらい密集してるにもかかわらず、距離感がありますから。
佐藤 いいですね。
斎藤 非常にいいモデルです。
佐藤 斎藤先生も非常に居心地がいいんじゃないでしょうか。
斎藤 僕も居心地がよかったです。

こうやって見ると、斎藤環先生の言う「反知性主義」という表現も、もう一度、考え直す必要があるんじゃないのか、という印象になってくる。
言うまでもなく、現代における最も重大な問題こそ

であるわけだが、斎藤先生は、「オタク」はこのファシズムを免れている、という意味で、「全肯定」している、ということになるわけである。
では、彼の言う「反知性主義」とはなにかというと、「ヤンキー論」なんですね。つまり、反知性主義と言わない方がいいんで、ヤンキー問題と言っていればよかったんだけど、こういった傾向を、自民党内に見出そうとしたときに、ヤンキーという具体性のない表現を使うことをためらわれた、ということなのだろう。
いずれにしろ、そういう意味では、斎藤先生が戦っている問題は、一種の「日本会議」的なるものと同値だと言ってもいいわけなのだろうが、興味深いのは、斎藤先生は、そういったものと、

  • オタク

を一線を画して認識されていて、この「オタク」に対しては、ファシズムに回収されないという意味では、非常に強く「肯定」されている、というところにあるのではないだろうか。
今の大手マスコミで活躍されている知識人の中で、ほとんど唯一と言ってもいい、斎藤環先生の、この強烈な「オタク」肯定の姿は、ある意味で貴重ではないだろうか? もっと言えば、私は、今、日本の知識人の中で、唯一、昨年から起きているガルパン現象についての批評を行える貴重な存在なのではないか、とさえ、ひそかに思っているわけで、ぜひとも、斎藤先生には、この

の両輪で、一冊の本を書いてもらえないかなー、と密かに希望をしているのだが、どうだろうか...。

反知性主義とファシズム

反知性主義とファシズム