バロウズ・ダンハム『倫理学』

いろいろな考えがあると思うが、私は基本的にファシズム論で考えていて、つまりは、大抵のことは、ファシズムを防げるのであれば、肯定できるんじゃないのか、と考えている。
しかし、それに対して、いや「ファシズムがいい」んだ、みたいな、ヒットラーの再臨こそ、人類の新しい時代の到来、現代のさまざまな問題のブレークスルーなんだ、といったような議論が散見されるようになったのが、戦後70年の日本なのかな、と思っている(そういった延長に、例えば、サイコパスを肯定的に考えようとする議論なども含まれる)。
この二つの議論の差を考えることは、なかなか難しいんだけど、ではそれを、正面から考えようとしたとき、どういうことになるのか、少しやってみたい。

佐藤 この論理は、神が人間の世界に入ってくるインカーネーションに似ていて、キリスト教の構造とパラレルな感じがするんですよ。柄谷さんをすごいと思うのは、キリスト教的な枠の外で思索をずっと営んできたんだけれども、キリスト教的なものを外さないのが上手ですよね。彼が宗教に対して語るときはズレない。
斎藤 そういう感じですよね。その延長線だと思うんですけど、ラカニアン的な発言をしょっちゅうしてるんですけど、ラカン自体は絶対に援用しません、佐藤さんのお話を聞けば聞くほど、いかにラカンキリスト教の構図をそのまま精神分析に持ち込んだかっているのが痛感されます。
佐藤 柄谷さんの言説に関してもみんなが正面から議論しなやいけないと思います。
斎藤 と思うんですが、恐ろしいのは濱野さんも参加していた今の若手論客のサイトの中で、柄谷さんの名前を出していながら、「やっぱり知識人としては秋元の方が上じゃない」みたいな議論を平気でやっていることです。これが信じがたくて、劣化とか何とか以前にこれは何なんだろうという感じが非常にします。
佐藤 読んでないんですね。
斎藤 たぶん読んでないんでしょう。でなければ、東さん経由でしか知らないんでしょう。
佐藤 私は東さんの書いたものもほとんど読んだことがないんです。
斎藤 東さんの世代から柄谷さんをバカにする風潮が出てきましたね。

反知性主義とファシズム

反知性主義とファシズム

上記の部分はなかなか興味深いことを言っていて、つまり、ラカン精神分析が、非常にキリスト教の構造と似ている、と斎藤環さんというラカンの専門家が、キリスト教神学を勉強した佐藤優さんの言説から、改めて痛感させられている、ということなんですよね。
では、ここで言う「キリスト教」の問題とはなんなのか、それを、ここでの議論の中心になっている、柄谷さんの発言から考えてみると、どういうことになるか?

一方、普遍宗教は、そのような宗教の批判としてあらわれたのです。つまり、それまでの宗教にひそむ交換様式AとBの原理を批判するものとして。たとえば、イエスは「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」と説いた。それまでユダヤ教では、「目には目を」が普通です。「右の頬を打たれたら、(相手の)右の頬を打ち返せ」ということになる。これは一見すると、報復を煽っているようにみえますが、そうではない。むしろ、その逆です。
一般に、報復はいわゆる「倍返し」になります。そして、さらにそれに対する倍返しがなされる。それが血讐(ヴェンデッタ)です。「目には目をはそれを禁止するものです。目に対して目以上に報復してはならない、つまり、法による裁きに従えということです。この考えはバニロニアの『ハムラビ法典』にも明記されており、今日でいう「罪刑法定主義」の嚆矢です。では、イエスが「目には目を」を否定したとき、何を意味していたのでしょうか。
このことを理解するには、交換様式から見る必要がありす。最初の血讐は、交換様式A、すなわち互酬性(reciproity)です。実際、英語では報復することを reciprocate といいますし、日本語でも「お返しする」という。「目には目をとは、それを禁止するものなのです。それは交換様式B、すなわち国家の法を示します。それはまた、一種の等価交換、すなわち交換様式Cに近いといえます。一方、イエスがここで開示したのは、まったく新しい態度なのです。それは交換様式A・B・Cを否定するものです。
彼が提示したのは贈与です。しかし、それはお返しを迫るような贈与とは違います。たとえば、神に祈るとき、それはたんに祈るのであって、神に願いごとをかなえるように迫ることではない。だから、私はおような贈与を純粋贈与と呼びます。右の頬を打たれたとき、左の頬を出すのは、見たところ、無力の極みです。しかし、ここには、互酬交換の力を越えるような、純粋贈与の力があるのです。「愛の力」といってもいいのですが、それはたんなる観念ではなく、リアルで唯物論的な根拠をもつものです。

憲法の無意識 (岩波新書)

憲法の無意識 (岩波新書)

上記で語られていることは、なかなか興味深くて、いずれにしろ、イエスには、なんらかの欧米思想を「普遍的」にする契機があった、ということを言っているように思われる。つまり、やはり、欧米思想のある傾向性は、人間の歴史において、一定の役割を担ってきたのではないか、と言っているわけである。
例えば、こんなふうに考えてみよう。ある一年だけ、この地球上の空気が汚染され、水が汚染された、としよう。ところが、この汚染は、なんのことはない。その一年が過ぎれば、すべて、自然によって浄化される、ということが分かっているとする。
ところが、である。
その一年間、この地球上の空気と水が汚染されている、という環境は、私たち人間の生活環境としてはクリティカルだったとする。つまり、それによって、人間はこの地球上から滅びた。それどころか、ほとんどの動植物も滅び、特殊な耐性をもつ細菌類だけが生き残ったとする。
では、なぜ地球上の空気と水は汚されたのか。なんのことはない。人間の「功利主義」計算が

  • この程度までなら、大丈夫なんじゃない?

と思って行ったら、そう他の奴らも思っていて、それらが重なることにして、このような事態が起きた、ということになる。さて。誰が悪いのだろう? 一人一人は言うであろう。俺は悪くない。法律の範囲内で行動したんだ。動機として、地球を滅ぼそうとしてやったんじゃない。その言い訳の一つ一つには、きっと理があるのだろう。しかし、人類は滅んだがw
私はこういう人を、ここでは「言い訳君」と呼んでおこう。言い訳君は頭がいいのである。常に、なにかの反論をされたら、その「言い訳」を考えている。そういう意味では、無敵である。しかし、地球を滅ぼしたがw

明らかに、事実はこうである。すなわち私は、自分自身やたまたま歴史的に属している人々のために、究極的な道徳主張をすることはできないし、同様にそれは、私以外の人々のためや私がたまたま歴史的に属していない人々のためにも、主張できない。内部矛盾のない唯一の規則は、全人類を包含するものでなければならない。
そのような規則は存在し、しばしば巧みに述べられてきた。例えば「Do unto others {as you would have others do unto you. Bible:Matthew 7-12 自分の望むことを他者にせよ}」。しかし私としては、もっと厳密なカント {1724-1804 哲学者、独} 版を好む。「自分自身を含むすべての人を目的として扱い、いかなる人をも単なる手段として扱ってはならない」。

このように見ると、カントの実践理性批判が、キリスト教イエス・キリストに非常に影響を受けた、というか、ほとんど同じことを言っていると理解していいことが分かるであろう。
しかし、である。
現代社会は、ある意味において、今も「ファシズム」社会である。つまり、ナチス・ドイツの問題が今だに解決していない社会である。
どういうことか?

倫理学原理の基本的主張では、形容詞「善い」は質を言及する。この質は不確定数の機会に出現することができる。例えば、行動・状態・個人・事物において。さらにそれは、全く部分を持たないという意味で、単純である。ある質は、実際、部分を持つ。例えば「ウマ科 equine」という質が、馬が部分から成る生物体であるという理由で、ある。このように、たとえどんなものでも馬(「ウマ科」)に似ていば、それは部分を持つはずであり、こうして部分を持つという質を持つことになる。しかし、ムーアの考えによると「善い」という質は部分を全く持たず、従って単純である。
倫理学原理第2の仮説によると、定義は、論理的要請に応えるためには、組織化された部分の体系を記述しなければならない。、辞書の定義は、この論理的要請に応える類いのものではない、または必ずしもそうではない。というのは、大部分の場合、定義はそのものが何であるかを語るのではなく、所与のときその言語を話す人々によって、その語がどのように使用されるかを語るからである用法が気まぐれにもかかわらず、その質は本当に何であるかを述べる「ウマ科」の定義を得ることができる。しかし、形容詞「善い」にはそのようないかなる定義も存在しない(または存在しないように見える)。ムーアは書いている。従って「特殊な述語[すなわち「善い」]は、倫理学の領域がそれに照らして定義されなければならない場合によって、単純・分析不能・定義不能である」。

哲学者ジョージ・エドワード・ムーア(1873-1958)は、著書『倫理学原理』において、上記の引用にあるように、ようするに「善悪」なんていうのは存在しない、と言ったわけである。
それは、ある種の「科学的哲学」が主張していることでもあるわけであろう。この世に善悪などない。それは、物理法則のように善悪が存在しない、と言っているのと同値である。

しかし、もっとよく知られていないことの1つは、悪名高きアイヒマン {1906-62 ナチ指導者} が第3帝国崩壊寸前に述べた感想である。感想本文を読むにあたって、情緒理論の意味をまず第1に記憶しておいてほしい。すなわち、倫理言明は私たちの現在の感情を表現するに過ぎない。ある人の感情は別の人の感情と矛盾することはあり得ない。そして、感情について議論することはできないから、私たちは倫理学について議論することはできない。アイヒマンは友人の1人に言った。私は「笑いながら自分の墓に飛び込もう、なぜなら自分の良心にかかっている500万もの人々がいるという感じは、自分にとってこの上なき満足の源であろうから」。

アイヒマンの言っていることを直截に要約するなら、この世に善悪がないということは、全ては「個人の好み」だ、と言っている、ということである。アイヒマンが死の直前に、自らが行ったことを「言い訳」のように言っていることも、基本的にはそういうことであって、この議論を延長すれば、別に、人類が滅びたってなんだって、そういったことの「善悪」も「個人の好み」に還元されるのだから、自分が怒られる謂れもないよね、というわけであるw
私たちは、こういったムーアのような「哲学者」や、アイヒマンに対して、無視したり、軽視したりしているわけだが、実際のところ、似たようなことを言っている人は大勢いるんじゃないだろうか。
掲題の著者が、こういった態度に対して言っていることは控えめではあるが、本質的である。

大量殺戮はアイヒマンにこの上なき満足を与えた。にもかかわらず、それは全くの悪であった。人類絶滅は未来の情緒論者にこの上なき満足を与えるかも知れない。にもかかわらず、もしそんなことになったら、それは全くの悪であろう。それを好むことで何か善いことのできる者はいないし、それを嫌うことで何か悪いことのできる者はいない。さらに、同意または不同意を求めることで、それを善くしたり悪くしたいできる者はいない。

こうやって見ると、イエス・キリスト、カント、掲題の著者は、ほとんど同じことを言っているように聞こえる。私たち人間は確かに、別に、自分から望んで、この世界に生まれてきたわけではない。そうではないにも関わらず、イエス・キリスト、カント、掲題の著者は、私たちにある種の「純粋贈与」を行え、と言う。別にそれを疑うのは勝手だが(まさに、アイヒマンがそうしたのだろうがw)、だったら、人類が滅びても「しょうがない」よね、と言っているようにしか聞こえない。つまり、これを否定する人たちとは、一体、何をしたいのか、彼らの

が私には気になるわけである...。

倫理学――その死と再生 ETHICS DEAD AND ALIVE

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