田舎という記号

弁証法というと、ヘーゲル哲学ということで、正反合のアウフヘーベンとか、そんなことを考えるのであろうが、この弁証法を、例えば、統計力学で説明するなら、非平衡状態から平衡状態へ遷移した、と考えるのが自然であろう。ただし、その場合に、多くの「次元」をもっているのが弁証法である、と。
私たちの世界は、なんらかの「不安定」な状態がずっと維持されていくことはない。なんらかの、アンバランスは必ず、なんらかの、安定状態へ落ち着いていく。ただしそれが、「いつ」、「どのようにして」そうなるのかは、なかなか、分からない。そもそも、なぜ安定状態に遷移したはずのものが、再度、不安定な状態に変わるのかと考えていると、話はそんなに簡単ではなく、もっと長いスパンの、なんらかの「周期」のようなものがあるのではないかと疑ってみたくもなる。
なぜ世界は究極の「フラット」にならないのか。
そう考えてみると、むしろ問題は、なぜ世界はフラットで「あるべき」と考えているのか、に疑問がわいてくるわけである。
世界がフラットである「べき」と欲望をするのは、一種の「都会」的な作法ではないのか? 都会には多くの田舎者が集まってくる。しかし、普通に考えて、まったく違った地域で暮していた人々が、同じ感覚で「フラット」になる、というのは、常識で考えてもありえない。むしろ、東京人が言いたいことは、田舎者は

  • 東京人になれ(東京フラットになれ)

と言っているわけである。世界の全ては、東京になるべきだ。それは、それが正しいからそう言っているのではなく、そうなれば、より東京に詳しい自分が、

  • 世界中の人をダメ出しできる

というわけである。彼らにしてみれば、田舎は「ノイズ」なわけである。彼らの視線は、一見、田舎を見ているようで、見ていない。つまりは、ノイズということで、フィルタリングされ、除去されている。田舎者は東京フラットでないという時点で、

  • 減点

なのだ。世界は東京になるべきだ。なぜなら、東京が正しいから。これが「フラット革命」の真意であって、なぜ世界には東京だけがないのか、と真剣に不思議に思っている、というわけである orz
いわゆる、「田舎アニメ」とでも呼んだ方がいいんじゃないかと思うくらいに、近年、そういった「田舎」をフィーチャーしたアニメが作成されているが、一例をあげると、

となる。これらの特徴は、いずれも、少年誌漫画が原作ということで、つまり、小説や批評というような、なんらかの「活字という観念の記号」では、伝わりづらいような、

  • シュール

な「差異」を表現するには、漫画というスタイルは強力だ、ということになるだろうか。このことを逆に言うなら、小説や批評というのは、むしろ、「活字という牢獄」に囚われているという意味で、その限界を確定されている芸術なんじゃないのか、とすら思わさせられる。
そういう意味で、小説や批評は、「都会文学」なのだ。つまり、東京芸術というわけである。東京のフラットさ、東京の貧しさは、小説や批評の貧しさでもある。
さて。こんなふうに「田舎」という記号にこだわってみたわけだが、しかし、ある意味において、現代のサブカルチャー、アニメや漫画は、ほとんど

  • すべて

の作品が「田舎」をなんらかの形で問題にしている、と言ってもいいのではないだろうか。例えはそれを「郊外問題」と呼んでもいい。私たちは、なんらかの「都会」との

  • 差異

をいつまでも問題にしている。それは、なぜなのだろう? なぜ田舎や郊外や外国と都会は、常に対立しているのか。なぜ、この二つは真なる和解に辿り着かないのか?

  • 都会・東京 <--> 田舎・郊外・外国

この対立は、次のようにパラフレーズできる。

実は、東京問題とは、「国家」問題だということが分かるであろう。日本国家の権力は東京に集中している。あらゆる国家判断は、すべての国レベルの政策意識決定機関が東京にあり、ほとんどすべての株式会社の本社が東京に集中しているこの日本において、東京とは政治的な意思が

  • 東京だけ

で決められる、ということを実質的に意味している。つまりは、田舎を生かすも殺すも、東京だけで決められる、というわけである。それが、フラット革命の意味であって、田舎は東京のマネをしていればいい、田舎は東京人が見て意味が分からないことをやってはならない、なぜなら、そうでなければ、東京人に、田舎の意味が分からないのだから、田舎は東京を「真似」して、

  • 同じになる(=コピーになる)

ことが、田舎者の努力義務なのだ、というわけである。現代の情報社会は、管理社会として「完成」する。田舎が「監視」されるということは、東京人が田舎を監視するということであり、その場合に、田舎者は東京人が見て

  • 意味不明

なことをしてはならない。なぜなら、それはノイズになるから。つまり、管理できないから。
東京人は田舎を「学ぼう」というモチベがない。なぜなら、東京が世界の中心だと思っているから、なんで自分が田舎のことを知らなければならないのかが意味が分からない。学ぶのは田舎の方で、むしろ、田舎者は東京人が見て、意味の分からないことを行うことを

  • 禁止

すればいい、と思っている。
そもそも、ヘーゲル精神現象学は、「文学作品」を題材としているように、ある意味において「物語論」として読める構成になっている。そして、物語はなんらかの「差異」を内包することによって、その「運動」が始まる。ある田舎者が、都会に入ることによって、なんらかの

  • 不安定性

が生まれるわけだが、弁証法はそれをそのままにしておかない。東京フラット革命はこの「ノイズ」を嫌う。つまり、そういうノイズは存在しないことにしてしまう。つまり、見て見ぬふりだ。しかし、弁証法という物語はそういった東京人の「暴力」に対して、鉄槌を下す。
ある田舎者が、都会に入ってくることによって、彼の故郷の作法と、この「都会=東京」の作法の違いが、その田舎者に「深い考察」を強いる。これが、物語であり、「批評」である。
例えば、アニメ「戦う司書」において、見習いのノルティは田舎から出てきて、彼女の田舎において身につけた作法において、人を殺さない、ということを自らに課していたわけであるが、最終的にノルティは、なんの意味もない、ゴミ屑のような奴等に殺される。しかし、逆にそのことが、エンリケに深い考察を促す構造になっている(こういった構造を考えると、ノルティは、ある意味において、イエス・キリストのような位置に置かれていた、と考えることができるであろう)。ノルティの死は、都会の作法から考えるなら、たんなる無駄死にであり、共同体の嘲笑のネタであるが、エンリケの視点からは、それをたんに嗤いのネタで、まさに田舎を

  • ノイズ

として無視することができなかった。つまりは、これが物語であり、「批評」だ、というわけである。
アニメ「Re:ゼロから始まる異世界生活」は、その最初をWEB小説から始まったということであるが、そのラノベ第2巻、第3巻は、なかなか興味深いものがある。上記での文脈に合わせるなら、

という対応にあるのであろうが、私はこの作品は「パラレル・ワールド」物ではなく、

  • ヴァーチャル・リアリティ

物なのだろう、と思っている。その理由は、主人公のスバルの死が「リセット」として過去の一定のポイントに戻るという構造が、この「異世界」を、なんらかの「幻想」と考えると説明がつく、と思っているからである。
主人公のスバルが徹底して「うざい」のは、彼には、彼の周りを固める「登場人物」たちとの、

  • 彼らがもっていない「経験値」

をもっているから、と考えることができる。その経験は「存在しない」と言う方が正しいが、彼の中では、それは間違いなく存在している。つまり、

  • メタ

の視点からは、存在していると言わざるをえない形で存在している。しかし、なぜそうなのか? それは、スバルが

  • 何回も死んでいる

から、ということになるが、そもそも人間は一回しか死ねない。そういう意味で、上記の表現は、そもそも、スバル以外の誰にも理解できない体験だと言うしかない。
ここに、興味深い視点がある。スバルが三度目のロールプレイにおいて、彼が懇意にしているレムに殺されるわけであり、そのことを悟ったとき、四度目のロールプレイ以降、スバルは、ラムもレムも信じられなくなる。
それはそうである。
自分を殺した人間を、どんな理由があれ、あなたは信じられるだろうか? その自分を殺した人間は、

  • 同じ条件

がそろえば、また、同じように自分を殺す、と言っているわけである。大事なポイントは、「実証されている」というところにあるのだ。その人間の「属性」には、自分を殺すという「条件」が備わっている。このことを知ってしまったその後も、その人と仲良くやっていける、という条件が、そもそもありうるのだろうか?
スバルはこの「事実」に、一晩苦しみ、エミリアたんの膝枕の上で、一晩中、泣き喚き、ある考えに辿り着く。それは、やっぱり自分は、今のこの「平和」を守りたい、というわけである。
スバルの周りを囲む人間たちは、みな、なんらかの「条件」の範囲で生きているに過ぎない。なぜ彼らが自分に親切にしたり、うらぎったりするのか。それは、彼の行動を含めた、さまざまな「パラメータ」が、さまざまな方向へ誘導している。
生きるとは、そういうことなのである。
なぜ、レムはスバルを殺したのか。それは、スバルが今までとは違ったロールプレイを行ったことで、周りの疑心暗鬼を促したから、と考えられる。つまり、スバルがスパイであった場合のリスクと天秤にかけ、そういった疑わしい行動を行ったスバルを消した方が、これからの「リスク」と比較した場合に、合理的だ、と判断したからなわけである。
私たちは、そういう意味で、どこかアドラー心理学的なわけである。
私たちの周りの人たちは、本質的に「善」なのではない。彼らは、「私の行動」をパラメータにして、大きな揺れ幅をもっている。彼らが善意をもって自分に対しようとするのは、自分がそう彼らに「思わせる」行動をしたからに過ぎない。つまり、全てのトリガーは自分にあるわけである。
スバルは5回目のロールプレイにおいて、周りの彼が今までの「経験値」から、「愛すべき」と思ったキャラを「守る」戦略を選んだとき、結果として、このロールプレイの無限ループから抜け出すことに成功する。しかし、なぜスバルは、そのように思うようになったのか?

「どうして......」
「なんなのかしら」
「どうして、きてくれたんだ? 俺は......」
---契約に従ってスバルを守ろうとしたベアトリスにすら、何も打ち明けられない。
言葉を詰まらせるスバルの態度にベアトリスは呆れた顔つきで鼻を鳴らした。
「お前の身の安全を守るのが、ベティーの交わした契約なのよ。その相手が醜態をさらした挙句に投身自殺、なんてしたらベティーの威信に関わるかしら」
「ボディーガードは......今日の朝まで、って話だったはずだが」
「---期限の話をした覚えはないのよ。お前の思い違いじゃないかしら」

スバルは何回かの自死の間に、彼をとりまくキャラたちの「本質」に迫って行く。それは、繰り返されるロールプレイにおいて、相手が「もっていない」経験であるにも関わらず、自分は「もっている」経験であるがゆえに、彼にはその「本質」に迫れるわけである。
上記の引用にあるような、ベアトリスがもつ「慣習」は、スバルを深く考察させる。レムは確かに、あるロールプレイのルートにおいて、自分を殺したが、別のルートにおいては、自らの命を抛ってでもスバルを助けようとする。さて。どっちの彼女が「本質」なのか。それを分かることが可能なのは、自らの自死と共に、それを知ることを選んだスバルのもつ「差異」の感性、だと言えるだろう...。