西垣通『集合知とは何か』

そういえば、この前、日本語のウィキペディアの「集合知」の項目を見ようとしたら、なぜか「集合知能」のリンクに飛ばされて、なんなのかなと思ったのだが。というのは、言うまでもなく、私たちが「集合知」という言葉を意識するようになったのは、スロウィッキーの本を読んでからだからだが、しかし、掲題の本は、このスロウィッキーの本をボロクソにけなしているわけである(そして、上記のウィキペディアの項目の参考資料は、西垣先生の本ばかりだw)。

「みんなの意見」は案外正しい』がトンデモ本だというつもりはない。それなりに慎重さと知性が感じられるし、集合知が有効でない例も書かれている。虚偽が記載されていることはたぶんないだろう。
とはいえ、書き方に注目すると、血液型占いの本や怪しげな民間治療の宣伝本などと類似していることがわかる。つまり、常識をこえた刺激的な例をたくさんあげ、たえず読み手の興味をひきながら、すばらしい集合知という「印象」をたくみに与えていくわけだ。
残念ながらそこに、集合知という対象を正面から探究していこうという知的誠実さを感じとることはできない。ベストセラー狙いのコラムニストの著書だから当然かもしれないが、「いったいなぜ集合知は正しいのか」という根拠に迫ろうとする学問的アプローチとは無縁なのである。だから面白くはあっても、ほんとうの説得力はもたないのだ。
だが、スロウィッキーは単に例を並べているだけではない。それなりの分析らしきものは試みている。とくに前述の三つの疑問のうち、第一の「集合知が正しいたもの条件」については、はっきりと示されている。それは、集団の意見が(1)多様性(2)独立性(3)分散性、の三つの性質をみたしていることであり、また、そういう意見を集約するメカニズムがあることだという。
気にかかるのはこの三条件のあいだの関係性である。多様性とは集団の各メンバーが独自の情報を持っていることであり、独立性とは他者の考えに左右されないこと、そして分散性とは身近な情報を利用できるとこと、と説明されている。だが、これらは明快な条件とはいえない。まず、メンバーの志向が互いに「独立」なら、多くの場合、「多様」になるだろう。また、「分散性」とは地域的に分散じているのか、論理的に隔てられているのかよくわからないが、いずれにしても、「独立性」に含まれるといってよい。
おそらく、本質的なのは「多様性」だろう。集団が均質なら一人の意見と同じようなものだから、このことは直感的にうなずける。分散していて独立に思考していれば、まずまちがいなく多様性が確保できるはずだからだ。だがこれをとらえ直すと、多様性さえ確保できるなら、かならずしも独立だったり、分散したりする必要はないのではないか。
こう考えると、スロウィッキーの提示する三条件はどうも怪しく思えてくる。
「独立性(分散性)」を普通に解釈すると、集団のメンバー同士が相互に隔てられ、没交渉なことだという気がする。だが、これは民主主義の基本である討論の否定を意味するのではないだろうか。民主主義とは、集団のメンバーが多数決で決めるだけでなく、むしろ相互に話し合い、妥協点や実行可能な解を模索していくプロセスに主眼があるはずだ。真の多様性とは、そういうプロセスの結果として出てくると考えることもできる。

いやー。掲題の著者は、スロウィッキーの本の何が気に入らないのだろうか? 正直、私にはよく分からない。どんな本にも、足りない所と、豊富な所と、さまざまなんじゃないかと思うのだが、上記の引用の後半を見ると、どうも、掲題の著者は、スロウィッキーの本の理論的な部分の主張が、自分のポリシーからは満足できない、と言っているように聞こえる。
しかし、この後半の議論はなんだろう? まさに、東浩紀さんの「一般意志2.0」において展開された「民主主義否定論」なわけであろう。確かに、東浩紀さんの「一般意志2.0」は、スロウィッキーの本の引用から始まっているわけで、そういった視点で考えると、掲題の本は、スロウィッキーの本と戦っているのではなくて、東浩紀さんの「一般意志2.0」と戦っているのではないか、と疑いたくもなってくるわけである。

これは実は、アローの定理(右の例はコンドルセ・サイクル)といって、その筋の研究者のあいだでは昔から知られた古典的議論なのである。ネット集合知ユートピアンは、はたしてアローの定理を知っているのだろうか。
ペイジは皮肉な調子で次のようにのべている。

集団的好みが存在しないというのは、重大な意味合いを持つ。「これがアメリカ国民の望むことだ」とは言えないのだ。黒づくめの服装でカフェに座ってタバコを吹かしながら、"一般意志" とは "総意" といった深遠な哲学的概念を延々と議論することならできる。しかしそれではこの問題はなくならないだろう。
(ペイジ『「多様な意見」はなぜ正しいのか』、邦訳、三二三頁)

この指摘は、ルソーの社会契約論などの議論を、安易にネット集合知に結びつけることに対する痛烈な警告といえる。

ようするに、掲題の著者は、東浩紀さんの「一般意志2.0」に、ソーカルの「知の欺瞞」問題を読み込んでいるんだと思うわけである。そういう意味で、スロウィッキーが問題なのではない。そのスロウィッキーの中途半端な理論的成果から、民主主義否定論の根拠を導きだしてくる、東浩紀さんという

的な手さばきで、次々とくりだされる、東浩紀さんの「知の欺瞞」的な「うさんくさい」推論を掲題の著者は、否定する。
しかし、である。
私は、いわゆる「集合知」についての、最近の、例えば、数学的な成果だとか、そういった話題が書かれているのかと思ったら、後半はどちらかというと「知とは何か」という感じで、クオリア暗黙知オートポイエーシスといったような、方向の話題に遷移していっていて、なんか、本のタイトルと離れていないのか、と思わなくもなかったのだがw
正直、よく分からないわけである。
掲題の本にしても、最初に3・11の、福島第一原発事故における「御用学者」の問題がとりあげられている。しかし、だとするなら、結局のところ何が言いたいのだろうか?
まず、専門家は、事実を隠蔽するか? 専門家は、嘘をつくか? チェルノブイリにおいても、福島第一においても、この点においては、専門家の態度は疑わしい側面を多くもっていた、と言わざるをえないのではないか。つまり、

  • だからこそ

集合知」が問題になったのではないのか。逆によく分からないのである。掲題の本は、なぜ「集合知」なのだろう? この本は、なんで「集合知」を問題にしているのだろう? そも問題意識がよく分からないわけである。

だが、本実験がしめすのは、人々は内心では相変わらう「みんなの意見より専門家の意見のほうが正しい」と信じているという厳然たる事実なのである。

意地悪くいえば、スロウィッキーの著書がベストセラーいなったこと自体、みんなが「みんなの意見は正しと思っていない」ことの証左ともいえるのである。

そういう意味では、掲題の著者も東浩紀さんも「集合知」を最後のところでは馬鹿にしている、という意味では変わらない。二人に言えることは、だったらもう、集合知なんて言うのをやめたらどうだろうか。
私たちが「集合知」について深く考えるようになったのは、言うまでもなく、3・11の福島第一原発事故における「御用学者」に対する、強烈な

  • ショック

があったからであろう。それに対して、東浩紀さんも掲題の著者も言っていることは「エリート・パニック」そのものではないのか。本気で「御用学者」の問題を考えているのだろうか。御用学者問題を「深刻」だと思っているのだろうか。御用学者の問題を深刻だと思っていないのなら、集合知なんで、どうでもいいんじゃないのか? 私には、掲題の本を読んでも、とてもそのような切実さを感じないわけである...。