成田龍一『大正デモクラシー』

明治以降の日本の近代化を、一つの「大衆化」の流れの中で考えるなら、大正時代のある時期の「民主化」が一見実現されたかに思われる時期と、そこから、関東大震災満州事変へと流れていく中での、この「大衆化」の問題がどのように顕在化していったのかを考えることは今の日本の「保守化」を考える上でも重要に思われる。

だが、「吉野デモ作」と揶揄されたこともあるように、吉野は左派の社会主義者たち、右派の国粋主義者たちの双方から批判を受けていた。また、歴史的にも帝国主義批判が手ぬるいと否定的な評価を受けた時期がある。吉野と民本主義に対し、帝国主義的な論調であるとして断ずる論者さえいた。ことは、吉野の評価とともに、大正デモクラシーの評価にかかわろう。

吉野作造の「民本主義」は、私たち日本の現代史を学んだ人たちにとって、なにか重要な契機の一つと考えられている。つまり、これは一つの「前進」だったのだ、と。
ところが、上記で注意が必要なのは、吉野作造の「民本主義」に対して、当時の社会主義者たちも批判をしていた、ということなのだ。つまり、どういうことか? 吉野作造の「民本主義」は、当時の社会主義者たちが

  • まっとうな批判

を行うような内容のものであり、なぜそれでも吉野作造は「これでいい」と思ったのか、というところにポイントがある。実際に、大正時代の民主主義を特徴づけているのも、そこに関係している、と言うことができる。

労働運動も、日清戦争以降、継続している。労働争議の数だけでも、一九〇七年には、呉海軍工廠、東京砲兵工廠、大阪砲兵工廠、三菱長崎造船所、足尾銅山、夕張炭鉱など、軍工廠、造船所、炭鉱をあわせて六〇件に及んでいる。労働者という自覚をもつ人びとの運動が、都市構造と都市問題を介して、「雑業層」や「旦那衆」の運動との接点を有している。かくして、民衆騒擾、住民運動、労働運動が展開され、地域における旧来の構造と秩序が、その担い手と担い手に連なる人びとによって揺るがせられていた。
このとき、彼らをつなぐ媒介線は、社会主義者であった。たびたびの弾圧にもかかわらず、大逆事件で決定的な打撃を受けるまでは、社会主義者たちの活動は拠点を有しながら、地域の人びととのつながりも形成られていた。日露戦争時に、反戦論を唱えた社会主義者は、一九〇六年一月に最初の社会主義政党である日本社会党を結成し、広範な網領を掲げた活動を行う。
一九〇六年三月に東京の市電が値上げを図ったときには、社会主義者の西川二郎や山口孤剣(義三)らと、新聞記者の田川大吉郎らが値上げ反対運動を主導し、演説会や市民大会を開催する。一九〇六年三月一五日に日比谷公園で開かれた市民大会は、直後の騒擾となり、西川・山口らは兇徒民聚衆によって逮捕されている。
同時に社会主義者たちは、日露戦争中からの地方遊説や、社会主義の書籍を売り歩く「社会主義伝道行商」を行っており、各地に社会主義者が存在し、社会主義のネットワークを作り出していた。北海道の札幌平民倶楽部をはじめ、下野同志会(栃木)、北総平民倶楽部(千葉)、横浜曙会(神奈川)、岡山いろは倶楽部など、地域を基盤とした社会主義団体があった。また、『熊本評論』、『大阪評論』など、地域単位で社会主義の雑誌が刊行されていた。和歌山の『牟婁新報』には、社会主義者である荒畑寒村や菅野すがが勤めており、社会主義関係の記事が多く目につく。
あるいは、北海道の社会主義者・腹子基が、「北海道移民の悲惨」(『日韓平民新聞』一九〇七年)を告発しながら、平民農場を経営し地域で自らの理念に基づく活動を実践するように(小池喜考『平民社農場の人びと』)、初期の社会主義は言論活動とともに地域での実践活動も試みていた。
また、アメリカに渡った片山潜幸徳秋水は、現地の社会主義者たちと交流をもち、サンフランシスコなどの拠点でネットワークを作っていた。
だが、一九〇七年二月の日本社会党第二回大会で、社会主義実現の方法をめぐり、ゼネストなどの直接行動に重きを置く幸徳秋水らの直接行動派と、議会を重視する片山潜ら議会政策派とが対立する。直接行動派は、「相互扶助」の思想(クロポトキン)に共感し、政治権力の否定を主張し、無政府主義へと接近していく、大杉栄らが赤旗を振って逮捕された、一九〇八年六月二二日の赤旗事件などは、そうした動向の所産であった。

このように、当時の社会主義者というのは、非常に重要な意味があった。まだ、普通選挙も実現されていない当時、多くの都市の中産階級は、自らの生活改善の回路を彼ら社会主義者を媒介として運動していた。そういう意味で、彼らが当時、発行していた出版物は非常に重要であった。
その関係を一変させたのが、大逆事件であり、幸徳秋水を始め、多くが秘密裁判で死刑にされているが(今では、無実だったことが分かっているわけだが、彼らが名誉回復されなければならないということを、どれだけの人が知っているのだろうか)。
大正デモクラシーは何が問題だったのであろうか? それは一言で言うなら、社会主義者の「弾圧」に関係していた。それはまさに、「思想弾圧」として行われた、というところに関係している。つまり、なにかの思想をもつことは

  • 国家

が殺しに来る、ということを意味する。国家が国民の「思想」に介在してくる。

だが、重要なことは、大正デモクラシーの終焉が、その内的な論理の射程範囲で起きたことでもあったという点である。たとえば、「娼婦」の自由廃業を促し、国家の管理による公娼制度を批判する廃娼運動。これは長い歴史を持ち大正デモクラシーの一翼を担うが、中軸の日本基督教婦人矯風会(一八九三年)と廓清会(一九一一年)は、一九二六年六月には廓清会婦人矯風会連合(翌年、廓清会婦人矯風会廃娼連盟)を結成し、すでに廃娼を実施していた群馬のほか、秋田、福島、福井など七県で廃娼建議が採択され、廃娼県を実現していった。しかし、運動は、「娼婦」が「日本帝国の体面を汚す」「健全なる国家の膨張を害う」(「満州婦人救済会」の設立趣旨、一九〇六年)という、帝国と予定調和する論理を一貫して有していた。そして、一九三五年には廃娼連盟を「国民純潔同盟」へと改組するに至る。

吉野作造満州事変において、それまでの、自らの「帝国主義」を容認した上での民主主義の運動に対して、一定の反省の態度を見せるわけだが、しかし、そこにこそ決定的な問題があったのではないのか。なぜ、吉野作造は当時の社会主義者アナーキストを「否定」したのか。彼の民主主義には、なんらかの、まさに

的な欠陥があったと言わざるをえないのではないか。吉野作造が当時の社会主義者アナーキストを排除した上での、

  • きれいな民主主義

を唱えるとき、それはまさに、「国権主義的民主主義」であり、「全体主義的民主主義」であり、「総動員体制的民主主義」であり、つまりは、あらゆることに国家を優先させることを容認した上での、「あまりものの民主主義」に過ぎない。そういう意味で、根本的な民主主義の出発点を破壊してしまう意味をもってしまっていたのではないかと思うわけであるが、その出発点にこそ、当時の社会主義者アナーキストへの吉野作造の嘲笑的な態度がよく現れているのではないか、と思うわけである...。

大正デモクラシー―シリーズ日本近現代史〈4〉 (岩波新書)

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