田中伸尚『大逆事件』

掲題の本について知ったのは、子安宣邦の『「大正」を読み直す』を読んだからなのだが、ある意味において、大正時代のこの「構造」は現代においてもなんら解決されず、続いている。同じ構造が

  • 反復

されている、と考えることもできるように思われる。ではここで言う「大正時代の構造」とは何か。

信州・明科での爆裂弾製造事件は、宮下逮捕からわずか一週間で刑法第七三条違反事件に変質した。天皇制国家からすれば、「大逆」はあってはならないし、あるはずがないのだった。一八八二年に施行された旧刑法第一一六条で初めて「大逆罪」が盛りこまれる際には、そのような規定そのものが、日本国民としては「不敬」だという反対論が出たのだから。そうであれば、無理に刑法第七三条を持出さなくてもよかったろう。しかし刑法第七三条事件は、裁判では一審で終審だったから、社会主義無政府主義思想の絶滅をもくろむ国家にとってはこれほど便利で、デッチ上げしやすい法律はなかった。

だがなぜ一二人なのか、なぜ他の人たちが減刑されなかったか、その正確で詳しい理由は明らかではないが、社会に誤りを消してしまう効果を持ったのである。「聖恩逆徒に及ぶ」(『紀伊毎日新聞』)「聖恩天の如し只感泣あるのみ」(『琉球新報』)「広大無辺の聖徳」(『九州日日新聞』)「聖主の慈仁に浴したる心地するのみ」(『東京朝日新聞』)というふうに全国の新聞は、真相に迫ろうとはせず「逆徒」と「聖徳」を対照させるような報道を続けた。

「大逆罪」で有罪になった「犯人」が裁判のやり直しを求める再審請求は、敗戦前には非常に難しかった。明治の「大逆事件」は、神聖不可侵の天皇制の生んだ国家犯罪だったが、明治憲法下では公然とは真相に近づくことさえできなかった。天皇暗殺計画の有無についての論議さえ不敬とされた。「天皇の名」による裁判に間違いがあるはずはなかったから。

そもそも、明治の法体系において、天皇を殺そうとする日本人が現れることは想定されていない。というか、そういう日本人がいてはならないわけである。そんな日本人がもしも現れるのなら、この日本の国体を維持できないことが「証明」されてしまう。そんなことがあってはならないということは、そんな事態を想定した法律自体が必要ない、ということになる。
だとするなら、そういった法律が適用される事態とは何を意味しているのか?
言うまでもなく、当時の社会主義者とは、都会の中産階級の労働者と、政権を繋ぐ媒介のような組織として、一定の社会的な意味をもっていた。まだ、選挙権すらもっていない彼ら労働者に「発言」の場を与え、権利主張を実現させていたのが彼ら社会主義者であった。彼ら都会で、さまざまな出版活動を行う中で、彼ら労働者の声を公にする役割があった。しかし、よく考えてもらえば分かるように、そんなことを可能にさせていたのは、彼らが、それなりのお金のある家の出であることを意味していた。実際に、彼らは地方の名家の出であり、

  • 良い人

だったからこそ、さまざまな労働者の権利を守るための、犠牲的な活動を行った。だからこそ、彼らが「大逆罪」とされたことは、彼らの名誉の問題を彼らの田舎の実家の一族郎党にもたらした。
ここは非常に重要なポイントである。「勧善懲悪」は、そもそもこんなことが起きてはならないことに関係している。だからこそ、国家は彼らを「完全悪」にせざるをえなかった。社会主義者アナーキストを「絶対悪」にせざるをえなかった。しかし、そうしたらそうしたで、今度は天皇その人そのものの「無慈悲」さが際立ってしまう。そこで、何人かの「恩赦」を、判決を下したすぐに行うことになる。しかし、わざわざそんなことになるくらいなら、「大逆罪」など適用しなければよかったのだ。
明らかに、幸徳秋水などの社会主義者アナーキストが根だやしにされた「大逆事件」は、山縣有朋などによって仕掛けられた社会主義者アナーキストを一掃するための陰謀だったと考えられるが、逆にこのことが、それ以降の日本の政治の

  • 矛盾

を大きくしていくことになる。この矛盾は次第に大きくなり、日本の首筋にささった棘のように、じわりじわりと私たちを苦しめるようになっていく。自らで自らを追い詰めていることに気付かずに、次第に逃げ場を失っていく。

読み進むと、小作人が苦しい理由として三つの「迷信」に縛られているからだとあった。一つは、地主に小作料を納めるのは当然とする「迷信」、二つは納税義務は当然と思う「迷信」、三つは軍備がないと外国人に殺されるから兵役義務は当然とする「迷信」。そこで『無政府共産』の筆者は、政府を無くし、政府の親玉の天子なき自由の国にしようではないかと訴えていた。天子は決して「神の子」でもなんでもない、小学校の教師などから騙されているだけだ、などと説いていた。読み方によれば、アジテーションに誓い小冊子である
宮下はわずか一五ページのこの文書が肺腑に沁みわたり、今までのもやもやした疑問が一気に氷解していくようで喝采を叫びたくなった、冒頭の「なぜにおまいは、貧乏する。ワケをしらずば、きかしやうか。天子金もち、大地主。人の血をする、ダニがおる」という俗謡もまた、すとんと胸に落ちた。宮下がこの小冊子の送り主が、箱根・大平台の曹洞宗林泉寺の第一〇代住職の内山愚童(一八七四年生まれ)だと知ったのはずっと後であり、愚童には一面識もなかった。

宮下は、言ってみれば、田舎の労働者であり、日々の生活の苦しさの中から、上記のパンフレットに触発され、テロ行為が国民の迷信を打破する、という粗雑な考えにつき進んでしまう。確かにこのように整理すれば、宮下という教養のない労働者がなぜ、このように考えを突き詰めてしまったのかが分かるわけであろう。
しかし、そのことと幸徳秋水などのほとんどの社会主義者アナーキストと宮下が、なんの関係もなかったこととが理解されるなら、山縣有朋の陰謀が、そもそものこの事件を大きくした理由、つまり、これを

なんだという方向にミスリードしたことが、最大の問題であることが分かるのではないか。
しかし、山縣有朋は、これによって社会主義者アナーキストが一掃されて、自らの権力基盤が磐石になったくらいにしか思っていなかったのであろう。しかし、「嘘」は次第に、その「嘘」によって、自らを苦しめることになる。社会主義者アナーキストは、本当は「良い」人たちであった。そのことは、実際に彼らが行っていた行動が証明していた。そんな彼らを、山縣有朋

  • 完全悪

だと言わなければならない立場に追込まれていった。そう。まさに、吉田松陰が処刑された時の状況であり、イエス・キリストが殺された状況であり、これは

を生み出す状況を、自ら作っていることに気付かない。ここから、山縣有朋の政治を終わりが始まるわけである。
(まあ、社会主義者アナーキストっていうけど、ようするに、人のいい、田舎の名家の出身のボンボンなわけじゃないですか。こういうそれなりの資産家の子どもを「抹殺」したことは、それは大きな禍根を残しますよね。だって、彼らというのは、地元に行けば、それなりに尊敬されている人なわけでしょう。じゃあ、誰をリスペクトすればいいんでしょうかね。)
もしも日本人の中に、本質的な「悪」があるなら、私たちは天皇のために「自殺」をしなければならないのではないか? 日本人は生きていてはいけないのではないか? 本質的に日本人が日本人を殺す「本能」があるというなら、なぜ日本人が生き続ける権利がある、ということになるのか。
社会主義者アナーキストは、端的に彼らが行っていたことを見るなら、立場の弱い都市労働者の権利を守ろうとしていた、ということを意味するに過ぎない。しかし、そういった「善」の行為が、山縣有朋の政治においては

  • 本質的な悪

を内包している、ということになってしまった。つまり、ここにおいて、日本の「終わり」が予言されたのだ。山縣有朋は日本は「本質的に悪」だと、定義した。ここからWW2の敗戦まで、一直線だということである...。

大逆事件――死と生の群像

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