子安宣邦『「大正」を読み直す』

現代の日本においても、さまざまな論客が

  • 民主主義否定論

を言うわけだが、それはようするに権威主義であり、エリート主義と解釈されるものであるわけだが、そういった論客たちの立論は、「いつか来た道」であるわけで、ようするに「保守派」というのは、戦前もいた。いたどころか、戦前においては「保守派」こそが、エスタブリッシュメントだった。戦後になって、左翼が学問の世界において、エスタブリッシュメントとなり、そういった戦前の光景が忘れ去られてきたわけだが、あらためて、戦前の光景が繰り返されている、と解釈することができるのであろう。

吉野作造は国家の主権は人民にあるという意味での民主主義を「絶対的または哲学的民主主義」として、その政治的な現実性を否定した。「人民主権」としての民主主義」とはデモクラシーの正しい訳語ではないと吉野はいう。むしろ「国家の主権の活動の基本的な目標は政治条人民にあるべし」という「民本主義」こそがデモクラシーの正しい訳語であるというのである。「主権は人民にあり」とする「民主主義」は政治学的考察の対象にならない哲学的観念として斥け、国家の主権的行用たる政治の目的として人民があることを「民本主義」とし、そこにこそ政治学的考察の課題があるとするのが吉野の近代国家日本のデモクラシー論である。

いわゆる民本主義とは、法律の理論上主権の何人にありやということはおいてこれを問わず、ただその主権を行用するにあたって、主権者はすべからく一般民衆の利益ならびに意向を重んずるを方針とすべしという主義である。

上記の吉野作造の発言の引用を見ると、まあ、ようするに「パターナリズム」なんですよねw エリートは国民の「ため」に行動すべし、っていう。つまり、国民一人一人は、吉野作造の考える

  • 民主主義の主体

ではないわけなんですよね。
しかし、さ。
こんなようなことを、現代の論客たちも言ってますよね。「民主主義否定論」として。
つまり、現代における「保守派」というのは、この「戦前」の「常識」に戻れ、と言っているわけであろう。
本当に、一部のエリートに国民の全ての決定を任せたら、どうなってしまうのだろう? いや。今までの人類の歴史は全てこれなのではないか?

この文章の冒頭で大杉は、労働者は建設しようとする将来社会の観念をしっかりもたなければ、革命の道具にはなるが、その主人公になることはできないというクロポトキンの言葉を引きながらこういっている。

実際労働者は、今日までのどこの革命にでも、いつも旧社会破壊の道具にだけ使われて、新社会の建設にはほとんどあずかっていない。大部分は自分らの力で破壊しておきながら、それが済めば、あとは万事を人任せにしている。そしてそのいわゆる新社会が、まったく旧社会同様の他人のためのものになることに少しも気がつかない。
しかしこれは、労働者に新社会組織についてのはっきりした観念がないということよりもむしろ、自分のことはすべてあくまでも自分でするという、本当にしっかりした自主心がないからではあるまいか。

クロポトキンを引きながらいう大杉のこの言葉は、すでにクロポトキンをこえている。こえているというのがいいすぎならば、大杉はクロポトキンを自分のものにしている。労働者が社会変革の道具だけにとどまらないためには、新社会の観念をしっかりともつかどうかではない。むしろ労働者がその運動主体の主人であるかどうか、あるいはその運動が自分のための、すなわち自分のものであるかどうかにあると大杉はいっているのである。将来社会という理想は運動から離れて宙に掲げられた目標ではない。むしろ理想、あるいは目的とは労働者の運動の一歩一歩が、その足跡の上に刻みつけていくようなものでなければならない。そのとき労働者はその運動の主人公であって、決して道具にはならないであろう。大杉がこの「社会的理想論」の後半でいう「労働運動とは白紙の本だ」という言葉をふまえて考えれば、大杉の冒頭の文章の趣旨はまちがいなくこのように理解されるだろう。これはアナルコ・サンジカリズムにおける「直接行動論」の本領をいうものではないか。

大杉の批判は鋭いわけで、民主主義と言っても、労働者はアンジャンレジームの「破壊」には、いいように利用されながら、新社会の建設にはほとんど関わってこなかった。そうやって、人任せにエリートにいいようにあしらわれているうちに、以前のアンシャンレジームと同じ構造になっている。しかし、それをエリート批判として言うのは易しいが、ようするにそれって、労働者が、

  • 自分のことは自分でする

という基本を忘れているから、ではないのか?

大杉はこの吉野の国家主義の興隆による旧い民本主義の凋落と新しい民本主義しての持続をいう「再論」の論旨をこう要約する。

従来思想上の全能の君主であった民主主義に対して、有力な一個の勁敵である国家主義の思想が現われた。団体を離れて個人の生活はない。したがってその自由も権利もない。そして国家はこの共同生活体の最高様式である。かくして、個人的自由論は一大痛棒を加えられるとともに、最大多数の最大幸福論は自然と国家主義の中に捲きこまれた。最大多数というのが共同生活体ということの中にまぎれこまされちゃった。......民主主義がその政治上の絶対的原則たる性質を失って、たんに国家主義の弊害を矯めるための一相対的原則となったというのはこのときのことである。しかもその相対的たる、等しくまた相対的の国家主義と肩をならべるというよりも、むしろ国家主義に従属してというほどの意味のものとなった。

これは見事な要約である。吉野のしどろもどろの議論を大杉は国家主義時代の「民主主義」の衰亡史として読み切っている。

ようするに、国家主義だろうがなんだろうが、どうでもいいわけである。労働者が「自分のことは自分がする」という、基本の基本、まさに、アナーキストたちが主張した、「直接行動論」の可能性の中心を考えるなら、つまりは、民主主義以外にないし、その徹底しかない。
民主主義否定論とかまさに、吉野作造民本主義なわけで、へたれ国家主義者なわけでしょうw

われわれはいま制度的民主主義、議会制民主主義の文字通り形骸化した深刻な事態の中にいる。この事態を直視するものは、大杉の言葉をただの逆説として見捨てることはできない。

まったくその通りなわけで、議会制民主主義とか言って、国民の「代表」が決めたことには逆らえない? 馬鹿じゃないだろうか。アメリカの民主党代表選挙を見ても、「ワシントン」の既得権益の代表のヒラリー・クリントンに対して、若者たちは熱狂的にサンダースを応援しているわけだが、それって、ようするに、

  • 反ワシントン

なわけでしょう。ぬくぬくと、ワシントンの既得権益の間で、さまざまな権益をかばいあって、国民を見捨てる「政治」に反対しているわけであろう。恐しいね。多くのアメリカの国民は、このままサンダースにヒラリーが恥をかかせるかどうかを見ている。それなりの処遇をすることなしに、また、

  • ワシントンの既得権政治

を続けるのかを見ている。恐しいね...。