18歳のダブルバインド

そもそも、安倍総理は政治家になる前は、まったく政治に興味のない青年だった、という。一度、企業に就職して、政治家になったわけであるが、現在、さまざまに議論されている、日本会議などの極右の運動と

  • まったく関係ない

ところで、子ども時代であり、学生時代を過ごしていたというのは、今の日本において何が起きているのかをよく現している。
安倍首相がなぜ「極右」勢力と懇意になっていったのか? それは、ひとえに、彼自身の政治家人生において、そうであることが「有利」だったから、と言うしかない。
そうやった考えてみると、例えば、70年談話にしても、もっと極右的な文章にできたはずなわけであるが、彼自身には、あまりそういった興味がないようである。
例えば、去年、さんざん国民を二分した安保法制にしても、結果として法案が成立したときには、大量の付帯条項が付いているわけで、あれほどの強行採決をするわりには、あまり「実質」について、彼は興味がなかったんじゃないのか、という疑いがある。もちろん、付帯条項は法律ではないのだから、その法的な意味にはいろいろ考えがあるのかもしれないが、彼自身にしてみれば

  • やった

という「事実」にこだわっていただけで、内容などどうでもよかったんじゃないのか、ようするに実質より「名目」にこだわっていたんじゃないのか、とも思うわけである。
さて。都知事選挙であるが、鳥越俊太郎が4野党連合の推薦をもって立候補したわけであるが、彼が言っていることは、改憲阻止であり、安保法案反対であり、基本的に、いわゆる「日本会議」に代表されるような、日本の政治の「極右」化に、一定の危機感をもってということであり、タレントの石田純一と同じだということになるであろう。
さて。この日本の政治状況において何が起きているのかと考えてみると、一つはっきりしていることは、まさに

  • 全共闘世代(=60代、70代)

が全面に出始めている、ということなのだ。その動きは、日本会議を「きっかけ」として始まっており、彼らの中心を占めている「全共闘世代に左翼に対抗する右翼運動をしていた連中」が、活発に主張を始めたことで、

  • 全共闘世代に左翼として戦っていた人々

がさまざまに刺激をされ始めている。つまり、昔の60年代の「対立」がもう一度、始められようとしている。
このことを、どう考えればいいのだろうか?
つまり、「全共闘」はまったく終わっていなかった、ということなのだろう。
今回の野党連合を見ても、左側の中心的担い手は「マスコミ関係者」となっている。それは、彼らジャーナリストでもないと、大量の政治的話題をトレースできない、という事情が大きく関係しているのであろう。
私はここで、まったく正反対の「若者」について考えてみたい。
例えば、今期、アニメ化されている、高野苺の漫画「orange」は、とても興味深い作品となっている。
主人公の女子高生の高宮菜穂(たかみやなほ)は、未来の自分から高校時代の「後悔」に関係した手紙をタイムスリップをすて受け取る。その手紙には、東京から転校してきた成瀬翔(なるせかける)が近いうちに「自殺」をして、未来にはいないことが書かれている。
問題はなぜ彼は自殺したのか、にある。確かに作品は、転校初日に菜穂たちが彼が家に帰るのをひきとめたため、母親にすぐに帰ると約束していたことを破ったから、というように説明される。
しかし、ここの記述は非常に「ふわっ」としたものにとどまっている。母親にはなんらかの、知能障害のようなものがあったのだろうか? 彼はどういった思考の「いきさつ」で、そういった「自殺」を選択しようとしたのか。
細かなディテールは結局最後まで、まったく記述されない。その記述はまさに、

  • 子ども

のそれである。子どもとは「未熟」な存在である。ちょっとした心の「流れ」によって、簡単に、自殺ですら選択してしまう、という認識がある。
原作においては、なぜ彼が自殺を止めることになるのかに、主人公たちの「仲間」意識の深化が、彼のマインドを変えたから、といった記述となっている。しかし、よく考えてみると、その「ふわっ」とした理由は、いっこうに、深い考察に向かわない。なにか、自殺を選ぶことも、選ばないことも、なんらかの「偶然」の産物にすぎないかのような記述に終始し、極論するなら、本当に自殺をしないことが「答え」だったのか、だったらなぜ、自殺を選ばざるをえないところまで追込まれたのか、といった内省を徹底して欠いているわけであり、なんとも言えない「あっけなさ」であり、「軽さ」が気になってくるわけである。
この作品は、典型的な「電通」的物語を言うこともできるであろう。
成瀬翔(なるせかける)は、サッカーの好きな、ときどき見せる幼い「笑顔」が素敵な、ちょっと陰のある少年であるが、このサッカーへの傾倒が、彼の母親への感情や、自殺を選ばざるをえなかった彼の内省と、どう関係しているのかが書かれることはない。
彼のサッカー好きは、まさに「電通」的な、「視聴率」的なアイコンとして機能しているわけで、まさに「思考停止」が始まる合図のような機能を果たす。「サッカー」がでてきた時点で、彼の生い立ちや母親の問題を問うことがタブーにされる。すべては

  • 仲間の友情の深さ

の問題に還元される。こういった問題は、例えば、60年代の全共闘世代的な左翼思考では、社会問題として問われたはずであろう。母親への、福祉は十分だったのか? 母親のいない彼へのメンタルケアは十分だったのか? ところが、一切の問題は「個人」に還元される。しかし、それは本来あるべき問いなのだろうか?
なぜ「政治」は問われないのか?
それは、彼らが「子ども」だから、ということになる。
そうした場合、例えば、今回の18歳選挙権について考えてみよう。そもそも、成人式は二十(はたち)である。つまり、18歳は子どもだ。では、なぜ子どもに今回、選挙権を与える、ということになったのだろう? もちろん、世界の先進国的に選挙権が18歳からに与えられている、というのは事実なのかもしれない。しかし、そういう問題ではなく、なぜ18歳からに今回、選挙権が与えられたのか、と考えるなら、単純に政府与党が、彼らが自民党に投票するだろう、との予測があったから、なのであろう。
18歳に選挙権を与えるなら、事実問題として、18歳を「大人」として扱うべきであろう。酒もタバコも認めるべきだし、そうしないどんな理由があるというのだろう?
今回、18歳に選挙権を与えるなら、「なぜ今、そういう変更がされたのか」を、合理的に説明されなければならない。ところが、だれもそれができない。
なぜか?
それは、この変更を「やろう」とした連中自体が、たんに「これで選挙を有利にできる」以上のことを考えたことがないからなのだ。
安倍首相は、驚くべきほどに、何を言っているのか分からない総理である。それは、彼自身が自分が何を言っているのかに興味がないからなのだ。彼が興味があるのは、結果としての「名目」だけで、とにかく

  • なにかをやって歴史に名を残した

という「勲章」が欲しいだけなのだ。それによって、実際に国民生活がどんなに「良く」なったのかなど、まったく関心がない。そういう意味で、彼は法律の文章が、どうなのかなど、まったく関心がない。そういった「フェティシズム」がまったくない。だから、意味不明の文章だろうが、どうでもいいわけである。
しかし、そういった政治状況において、意味不明に、選挙権を与えられた18歳、19歳は、ダブルバインドにとらわれる。確かに、安倍首相などは、彼らに選挙権を与えたのだから、「選挙で投票しろ」と言われている、と一次的には解釈するであろう。ところが、大人になるとは二十になることという定義は変わっていないのだから、彼らには暗に、

  • 大人でない子どもが選挙をするな

というメッセージを受けている、と思っている。18歳、19歳は選挙に行くべきなのだろうか? 彼らは悩む。大人は彼らに選挙に行けと言っているのだろうか、そうじゃないのだろうか?
よく考えてみてほしい。
なぜ、学校で、選挙の話をしてはいけないのか? 選挙権を与えておいて、学校の授業で「政治」の話をしない、ということはありえないんじゃないのか? 学校の「授業」の時間で、徹底して、選挙や「政治」の話をしなければならないんじゃないのか? なぜ、どんな理由によって、国家はそれを邪魔するのか?
それは、例えば、上記の漫画「orange」の主人公がクラスの友達たちと、なぜ「政治」の話をしないのか、にも関係している(そして、その「政治」が、翔や翔の母親の深刻な事情と関係している、という認識に至るわけであろう。
ようするに、国家は彼らを「子ども扱い」しているわけである。選挙権を与えておきながら。子ども扱いすることによって、彼らに「主体的」な行動をすることを邪魔しようとしている。「子ども」のまま、選挙会場まで連れてきておいて、

  • 大人の私が代わりに自民党に入れといてあげる

というのが彼らの「本音」なのだ。彼らを子ども扱いすることは、実質的に彼らには選挙を選ぶ能力がない、という扱いをしているわけで、そうでありながら、投票してもいいということは、実質的に、政府は政府に白紙委任をすると「書け」と

  • (教育的)指導

をしているのと等価なわけである。
しかし、そんなことでいいのだろうか?
例えば、安保法制の議論において、若者の「徴兵制」の復活が議論された。それに対して、敏感に反応したのが子どもたちであった。18歳、19歳の子どもたちよ。あなたは、赤紙で徴兵されるような法律改正を「認める」のか? 自分が、徴兵されることを認めるのか? それを認めるなら、自民党に投票すればいい。事実、日本会議の連中は、君たち若者に「そうしろ」と言っているのだから...。