リベラル軍隊のダブルバインド

トルコでクーデターがあったが失敗した、と今ではニュースになっているが、この「軍隊」の問題は、一般にリベラルと呼ばれている運動にも関係しているだけに、ちゃんと総括しておかなけれならないんじゃないのか、と思っている。
なぜ軍隊とリベラルは関係しているかというと、言うまでもなく、「徴兵制」をリベラルはなぜ主張するのか、という主張にある。徴兵制をするべきなのだろうか? 世界の今のトレンドとしては、徴兵制を実施しない、または、事実上、実施しないのと変わらない運用となっている、といった形が一般的であると言えるであろう。
(なぜ、こと日本の文脈で、徴兵制は何度もむしかえされるのだろうか? おそらく、徴兵制が強力に国民に「義務」を課すことが、政府に「利益」になるから、ということではないだろうか? 徴兵制は国民の「義務」であるから、政府は傭兵を雇う「お金」を浮かせることができる。そうであるなら、国民を口先で「だまくらかし」て、国民に徴兵制を受け入れさせてくれた「ゲンロン人」は、国家はそういう人には、お金を払ってでも「ありがたい」という需要をもつ。つまり、いつもの「御用学者」の誕生というわけであるw)
しかし、一般にリベラルが徴兵制を考えるとき、その「平等」性に注目している。あるお金持ちは軍隊に入らなくていい、つまり、お金を払えば、徴兵されるにすむということは、逆に言うなら、貧乏人は徴兵される、ということになる。もちろん、平常の状態として、自衛隊員を募集していると、一定の割合で志願者を獲得できている間は、それほど問題はないのかもしれないが、こういった傾向は一定のムードで変わってしまう恐れがある。そう考えるなら、一定の兵役を「義務」として確保しておかなければいけないんじゃないのか、という発想になる。
リベラルが兵役を言うのは、それが「平等」だからではなく、結局のところ、一定の「武装組織」が必要だ、という認識を共有する場合ということになる。さて。軍隊は必要なのだろうか?
伊勢崎賢治さんの主張を見るに、ようするに、今の「国連」は、そもそもの国連の「理想」では動いていない。つまり、各国の軍隊を一定の割合で「募集」することによって、実力組織を形成している。そういう意味では、各国に軍隊があり、そこから一定のリソースを提供してもらえることが前提になっているところがある。
結局、リベラルの考えている「平和」構想は、基本的にはジョン・ロールズの「正義論」に還元されるとも言えるのだが、まず、

  • 世界からの貧困の撲滅

を考える、ということになる。すると、必然的に「世界政府」ということを考えないわけにはいかなくなる。ドイツの社会学者のニコラス・ルーマンが注目した、官僚制の「テクノロジー」による効率化は、世界中をネット通信で繋げたわけで、たとえ、地球の裏側でも、動画で向こうの「様子」を知ることができるし、文字情報だけでなく skype などで会話もできる。まさに「グローバル化」である。
こういった時代に、各地域に「限定」される「正義」を考えることは、リベラルの感覚からはあまり説得力をもたなくなってきている。
この場合、世界正義とは、

  • 各地域の「悪」を、世界中が監視して、それを「防ぐ」

ということになるわけだが、それを可能にする実力集団は、今は各国のもつ軍隊しかない、というわけである。リベラルはなんと言っているか?

  • 自国の軍隊を派遣して、世界中の「悪」を防ぎたい

と。そのためには、自国の軍隊が「強力」でなければならない。リベラルは「正しいことをしたい」のだ。なぜなら、ほめられたいから。
しかし、ここにある種の「矛盾」が湧いて出てくる。

  • そもそも、あらゆる世界戦争は「正義」の主張から始まったのではないか? あらゆる国家が自らの「国益」のために行動するなら、悪を倒した国家は正義の名目のために「植民地」化すらするであろう。言い訳はなんとでもできるのだから。
  • 先進国は物価が高く、必然的に兵隊の給料も高くなるため、遠い国の騒乱に介入するコストがかかる。労働力が問題なら、紛争地の近場の傭兵を雇えばいいのではないか?
  • どこの国でも強力な軍隊をもつことには、利点もあれば、欠点もある。今回のトルコのように、自国の軍隊がクーデターを行ったとき、自国の軍隊では自国の軍隊を防ぐことができないのだから、そもそも「リベラル」の正義は実現できない、ということになる。

こういった問題は、そもそも国連軍が実質的に機能していない、という事実に関係している、ということなのであろう。現在の国連は5大国の拒否権によって、事実上、各国の軍隊が「ある」ことを前提にしたものにしかなっていない。しかし、国連の本来の主張を考えるなら、

  • 地域安全保障

は、各国が軍隊をもたない、ことが前提となるものなのではないだろうか? というのは、よく考えてみてほしい。各国が軍隊をもつということは、なにか矛盾していないだろうか? なぜ、各国が軍隊をもたなければならないのか? 各地域の安全保障は、国連でもいいが、その地域の

  • 安全保障体制

が保障するということであるなら、各国が自国の「主体」による、強力な軍隊をもつ必要はないのだから。そもそも、自国が周辺他国に比べて、強力な軍隊をもとうとする行為は、必然的に「侵略戦争」を可能にする、ということにつながる。つまりそれは、「自分は正義を実現させる<つもり>でやっている」といったような、

の理屈によって、戦争の拡大を招いてきたわけであろう。こういった一種の「自同律(=自分の中で「正義」が再帰的に完結している)」が、まさに20世紀の「論理」であった。
そして、実際にそうやって聞いていると、こういったリベラルの主張の陰から、いわゆる「保守派」の主張が聞こえてくる。自国の軍隊を徹底して拡大してなにが悪い。それこそ、「普通の国」なのであって、外国が侵略してきたときに頼れるのは、自国の軍隊だけじゃないのか、と。
そういった主張の延長に、「侵略の肯定」が始まる。確かに、国連は侵略戦争を禁止している。しかし、世界の戦争はすべて、祖国防衛を名目にして行われた。実際に、国家の国益、国民の財産を守るという名目が立つなら、どうして侵略を否定できるであろうか。国民が今にも飢えようとしているのに、なぜ隣国を侵略できない。それこそ、国家の「主体性」なんじゃないか。軍隊のない国家は国家じゃない、というわけである。
ようするに、リベラルの軍隊論は、実質的に「保守派の軍隊論」のロジックに対して、対抗する強度をもっていない。なぜないのだろうか? おそらく、リベラルの主張する「世界正義」が、本来であるなら、

  • 世界軍

を構想していく理屈になっていなければならないはずであるのに、実質的には、各国の軍隊の「リアリズム」を離れて考えられないところにあるのではないだろうか。つまり、リベラルは、あるダブルバインドに縛られている。

  • 一方で「正義」の世界性を主張しながら、
  • 他方で「暴力」の地域性を主張している

という。もしも「国連軍」なるものが、名実ともに実現したとするなら、それ以降の「国連軍」のオペレーションは

  • 警察行為

ということになるであろう。つまり、それは「軍隊ではない」のだ。すでに「警察」に変わっている。もはや、軍隊という「概念」が必要なくなる。しかし、よく考えてみてほしい。すでに、核兵器をもってしまった人類は、本当の意味での世界戦争を行えなくなってしまった。もう戦争が不可能の時代になってしまった。そういった時代に「あえて」、国製軍隊にこだわる理由は、そもそも、国際秩序のリアリズムにあるというより

  • 国内問題

と考えた方がいい、と私には思われる。国民を徴兵することは、国民を「支配」する手段を彼らに提供する。つまり、そもそもの「動機」はリベラルの「自由」の理念の逆だ、ということになる...。