小池百合子の研究

小池と増田と鳥越が、都知事選の終盤まで争っているということであるが、増田と鳥越はある程度の組織票を頼っているという意味では理解できるが、なぜ小池なのか、ということでは、あまり説明されていない印象を受ける。
小池は「自分はどこからも支援を受けていない」と言う。だから、「どこの支援もしていない」人たちに向かって「助けてくれ」と言っているわけだ。
そもそも、小池が本当に自民党の支援を受けていないのかは疑わしい。というのは、むしろ、組織から支援を受ければ受けるほど、「そっちの人」というスティグマがつき、票が伸びないと考えたのではないか。
なぜ小池は選挙にうってでたのか? それは、おそらく、かなりの確率で「勝てる」という勝算があったからなのではないか。
おそらく、小池に投票するかなりの割合が、女性なのだろう。彼女の「男社会からハブられて」、「孤立無援で戦っている」というパフォーマンスが、同じように、男性社会で孤立無援で毎日を送っている女性たちに

  • 私が彼女を助けなきゃ

といった「共感」を呼んでいるのではないか。そういった文脈で、彼女が「日本会議」や「在特会」のような、うさんくさい男組織に関係をもってきたことでさえ、

  • 女性が男社会でやっていくためには「それくらい」の汚れ仕事をかってこなければならなかった

といった形で、彼女が「なにをやっても」、彼女を悲劇のヒロインに脳内変換する回路ができてしまっているのだろう。
まさに、今回の小池の選挙戦略は「ファシズム」を思わせる。
かなり右寄りの政策も「行う」といったような素振りを示すことで、右寄りの応援をつなぎとめておきながら、左寄りの政策も小出しに見せることを忘れない。そうすることで、自民党支持者から共産党支持者に至るまで、満遍なく、彼女への支持を獲得している。おそらく、こういった候補者というのは、女性独特の傾向なのかもしれない。
確かに、東京のどこを見渡しても、トップは男ばかりであり、そんな状況で、彼女が「東京の女性たち、女の私を助けて」と言っているのを、無理して押しとどめる理屈もないように思われる。バランスを考えるなら、ここで女性知事が誕生することは、しょうがないことのようにさえ思えてきてしまう。
しかし、それが「ファシズム」の手法なんだ、と考えると、恐しくなる。
選挙の結果は、もちろん日曜になってみないと分からないが、全体として日本が右寄りになっていることは否定できないのではないか。この動きがある極点を超えたときに、日本の右寄りのムーブメントは臨界点を超えて、さまざまな社会の息苦しさに変わっていくのではないだろうか。どちらにしろ、あまり楽観的な未来は待っていないように思われるわけである...。