ゲーデル不完全性定理についての一考察

今年になって、メイヤスーの主著『有限性の後で』が翻訳されたわけだが、それを読んでみると、ようするにこの本は、往年のドイツ観念論哲学に今さらのように批判をしていて、

  • たとえ人間がこの世界にいなくても<世界>はある

みたいな、一種の「科学」論を行っていたわけだが、この、人間の認識や経験と<離れて>、

  • 存在=モノ

を、

  • 考えられる

といったようなことを、またぞろ、もちだして、一冊の本にしているということが、むしろ、驚きであった。

  • まだ、こんなことを言っているのか

と。つまり、今だに哲学は「存在論」なんだな、と。彼らは死ぬまで、存在論で行くのだろうかw
これに対して、現代科学は、この前も書いたように、まさに「カント以後」の洗礼を受けて、そういった

  • 思弁的

ななにかではなくなっている。科学を一言で言うなら、「データ・オリエンテッド」な活動ということになるだろう。つまり、科学は「情報」論の傘下に下った。科学が対象とするのは、基本的に「データ」というエビデンスであって、その「データ」の解釈(=モデル化)のことを科学と呼ぶようになった、なぜなら、それで困らないから。
もちろん、その「データ」を「モノ」と呼ぶことは可能だ。同じように、コンピュータ・プログラムを「モノ」と呼ぶことは可能だ。しかし、その場合、そのコンピュータ・プログラムの

  • 主張(=意味)

とはなんなのか? データが言おうとしている「意味」とはなんなのか?
つまりここに、ある「混乱」があるわけである。私たちは、日々、だれかと会い、なにかを話している。そして、そこでは「言葉」が使われている。そして、その会話という「行為」には、間違いなく、なんらかの

  • 意味

を見出して私たちは生きている。このことは、そういった会話が事実として「便利」に私たちをしている、ということを意味している。
しかし、である。
ここで、私たちはある「データ」や「コンピュータ・プログラム」を前にして、

  • これの意味

と考えるわけである。これただの「文字列」である。だれからこれを、今、目の前で話しかけているわけでもない。ただ、どこかに記号として並べられているこの文字列が、「なにかを意味している」とか、「なにかを主張している」とは、なんのことなのだろうか?
この二つを混同してはならない。
私たちの日常会話は、相手が私になんらかの「意図」をもって語りかけている。それは、相手が私の「文脈」を考慮して、「こういうふうに語れば、相手はその意図を比較的容易に理解してくれるだろう」と思って語りかけているのであって、むしろ、語られる文言自体は、「失敗作」かもしれない、という含意が最初からある。つまり、ここでは「意志」の方が、実際のリテラルな内容に

  • 優先

している、ということなのだ。日常会話は、「語られた内容」など「どうでもいい」のだ。ここで問題にされているのは、「語られた側が、語った側の意図を理解したのかどうか」であって、「語られた内容」がむちゃくちゃであっても、語られた側の態度が語った側に「満足」を与えれば、「なんだっていい」というわけである。
このことが多くの混乱を生んでいる。
さて。
「データ」や「コンピュータ・プログラム」には、なんらかの「一意」な意味があるのだろうか? 私はつい直前で、「それを考えることは無意味だ」と言った。それは「モノ」を「存在」と考える形而上学が、カント的な意味で無意味だ、ということと変わらない。
例えば、私は、ゲーデル不完全性定理について考えるとき、集合論選択公理と似ている、と思わされる。
選択公理とは、ある集合の集合があったとき、その集合の元のひとつひとつの集合から

  • どれか一つの元

を選べる、という主張である。これは一見「当たり前」のように思われる。しかし、よく考えてみてほしい。もしも「可能」であるなら、「その方法」が提示されなければ嘘ではないか? ここでは、その集合が「どうなっているのか」について、なにも述べていないのだ。そこから選ぶとは何? 何を言っていることなの?
しかし、それについては、上記のメイヤスーの本も、ある種の「多世界宇宙論の不可能性」の問題として書かれている。つまり、非理由律についてであって、もしも「多世界宇宙」が存在するなら、いったい「幾つ」あるのかを、巨大基数を使って

  • 数える

行為の無意味さが、それを示すわけである。
ようするに、ゲーデル不完全性定理は、「さまざまな無限」がアマルガムに混在するようなものを扱えない、と言っているわけである。
例えば、あまり言及されることがないが、プレスバーガー算術というものがある。

数の体系と超準モデル

数の体系と超準モデル

これは、一般の自然数演算の体系(ペアノ算術と呼ばれている)から、「かけ算」を除いたものであるが、驚くべきことに、この体系は「完全」なのだ。つまり、不完全性定理は成り立たない(条件のペアノ算術をプレスバーガー算術に変えているので矛盾ではない)。同じく、「かけ算」を残して「足し算」を除いた体系でも「完全」であることが証明できる。
このことは、一見すると何を言っているのか意味不明に思えるかもしれない。
かけ算が「ない」算術とは、つまりは、「その体系の中」にはない、ということであり、その外から見て、便宜的に「省略用法」として、私たちが当たり前のように日常やっている、そういった「外の行為」を禁止する、とかいう話ではないw
なぜ「かけ算」がないと完全になるのか? それは、早い話が、「かけ算」の「定義」が、言わば、

  • 外部からの超越的な操作

であることを意味しているわけで、つまりは、足し算とかけ算は、別々の「無限操作」であり、その「二つの無限」が、

している状況において、「どう選ばれている」のかが「その方法」において定式化できない。まさに、選択公理の問題と同じことを言っている、そう思われるわけである...。