アニメ「ローリングガールズ」のメッセージ

私は、ラノベだとかアニメだとかの、多くの作品を見ても、そのほとんどの作品がダメだな、と思うわけであるが、その理由は、一言で言うなら、

だからなんじゃないかな、と思っている。
たとえば、主人公が結果として活躍して、さまざまな困難を乗り越えるわけだが、それって主人公が「能力」があった、だから、可能だった、という形式をしているわけで、ようするに、主人公は一見、野に埋もれていたのかもしれないが、実は、「貴族」だった、やんごとない「身分」だった、ということが後から分かってくる、というような形になっている。
この世界のどこかには、この世界を牽引してくれるような「超越者=芸術家」がいて、その人が、私たち凡人を導いてくれる、と思っている。もちろん、その「超越者」が自分であってもいいのだが、大事なポイントは、その人が、なぜなのか

  • 自分を救ってくれる

という構造になっている。だから、もしも自分がその人によって救われないと、自分は怒り出す。
しかし、である。なぜヒーローは自分を救うのだろう? それは、もしもヒーローが自分を救ってくれなかったら、自分が「かわいそう」だからなのだ。
これは、国家を考えてもいい。国権主義は、個人に対して国家が優先される社会である。というか、それは各個人が自らより国家を優先して行動しなければならない、とされている社会を意味しているわけで、ということは、それぞれの個人が自らに優先して国家のために行う行動に対して、彼らはある「債務感情」をもっている、ということを意味している。<自分>は、ここまで国家のために、自己犠牲をして行動したのだから、国家の側は、どこかで、それに対する<見返り>を返さなければならないはずだ、と。それが、官僚による、<自分>への「特別扱い」ということになる。靖国神社に、<自分>の御霊(みたま)が祀られるということは、国家は<自分>を他の人とは区別して、特別に「感謝」してくれる、ということを意味する。それは、官僚が自分を「特別」に扱ってくれる、という「恩返し」を意味している。
しかし、である。もしも、ここまで自己犠牲をした自分が、国家や官僚によって、特別扱いをしてもらえなかったら、どう思うだろうか? なんらかの「不満」をもつのではないか? これが、

の構造だと言ってもいいであろう。結局のところ、何が問題なのかというと、人々は「超越者=芸術家」に依存している、ということなのである。だれかが、きっと自分を幸せにしてくれる。そう思っているから、その人が自分を幸せにしてくれないと、怒り始めるわけである。
それに対して、掲題のアニメの特徴は、主人公の4人の女の子たちは「普通」だ、というところにある。この世界において、エリートは「モサ」と呼ばれ、特別な能力をもっている。それに対して、一般の人は「モブ」と呼ばれる。
では、作品はどのように展開していくのか、ということになる。もっとも典型的な場面である、望未(のぞみ)が輝夜(かぐや)の暴力を止めようとする場面が以下である。

望未は輝夜のその姿に、単純に怖さを感じた。そしてそれと同時に、車持の手が何を求めているのかも伝わって来た。
「駄目です......!」
自然と望未の身体は動いた。二人に向かって突進しようとする輝夜にしがみつき、懸命に押しとどめた。
「離せっ!」
「あ......!?」
しかし襟首の辺りを掴まれ、簡単に放り投げられた。転がっていた椅子に背中をしたたかにぶつけ、息が出来なくなる。
揺れる視界の中で、輝夜は突きを繰り出していた。が、大伴は簡単な体さばきと腕の振りだけでそれを撥ね退け、挙句に真正面から竹槍の穂先を掴み取った。
「駄目です、輝夜さん......!」
動きが止まった途端、望未は必死に体を起こして、またも輝夜にしがみついた。しかし、
「ち......離せ言うとろうがあ!」
怒声と同時にやはり振り払われた。殴られたような痛みを顔に感じたと思った瞬間、天地がわからなくなり、気づけば頬に床の冷たさが伝わってきた。カウンターに叩きつけられ、床に倒れたのだ。
立とうとするが、足が動かない。望未は動く手に、床をかきむしる様にして力を込めた。

小説 ローリング☆ガールズ 3巻

小説 ローリング☆ガールズ 3巻

ここにおいて、輝夜は「モサ」であり、主人公の望未は「モブ」である。輝夜は無抵抗の車持(くらもち)に対して、一方的に暴力を振われたことに我慢がならない。輝夜は、その「不正義」に対して、戦おうとする。ではなぜ、主人公の望未は輝夜が暴力を振おうとするのを止めようとしたのか。それは、車持がなぜ抵抗しなかったのか、その意図を理解したから、ということが分かるであろう。
輝夜は確かに、名夜竹(なよたけ)一家の跡取りであるが、彼女は幼い頃から、堅気(かたぎ)の娘として育てられた。その彼女がもしもここで、暴力を振うなら、それは、彼女が堅気であることを捨てた、として解釈される。それは、彼女が堅気として育てられてきたことを、ずっと見守ってきた車持にとっては、絶対に譲れない一線だった、ということになる。
ここでの問題のポイントは、相手の、名夜竹一家の分家にあたる、石作(いしづくり)家の志麻(しま)が、本家の免状を奪いに来た場面なのだが、彼らがここで暴力をふるっているのは、彼女が

  • 任侠や義理人情を否定

しているというところにあるわけで、そこに根本の原因がある。石作志麻は任侠や義理人情を「時代遅れ」だと言う。車持にとっての問題はそういった彼女たちと同じ一線まで降りていくのかが問われている。車持は仁義の「ルール」の一線を守ろうとしている。だから、堅気の娘の輝夜に、それを否定している石作志麻の一線まで降りていくことを、なんとしても止めさせたいのだ。
しかし、ここの場面では、もっと重要な問題が問われている。
それは、こういった名夜竹家の本家と分家の争いに関わることになった、主人公の望未(のぞみ)にある、と言えるだろう。
つまり、なぜ彼女はここまでやるのか、にあるのだ。

「あなた、代理人でしょう......? なぜそこまで......」
「嫌なんです......! 私が、嫌なんです。代理人とか、モサとか関係なくて......」
望未の声には、ほんのわずかに涙の気配が混じっていた。
「よそ者のおせっかいです......でも、ほっとけないんです」
「......」
絶対に渡すもんかと更に背中を小さくして力を込める望未を見て、輝夜はかける言葉が見当たらなかった。
竹槍を取り返さなければいけないはずの手も動かない。
代わりに何故か頭に浮かんできたのは、小さい頃から自分を守ってくれた車持のことで----
小説 ローリング☆ガールズ 3巻

望未がここでこうやって輝夜の暴力を止めようとするのは、望未の慣習だと言えるだろう。彼女はそうすることが大事だと思うからそうする。しかし、そうすることによって、逆に輝夜に、なんらかの方向への行動の「動機」を与えることになっているわけである。
「モブ=大衆」は確かに「モサ=エリート」と比べて、「能力」はないかもしれない。しかし、結局、「エリート」が何かを行うというのは、彼らになんらかの

  • 動機

がインプリントされたとき、でしかない、ということが分かるのではないか。
よく考えてみてほしい。一見すると、「エリート」というのは人数が少ないから、唯一無二の「存在」のように思われる。しかし、それは人数が少ないというだけで、たった一人ということを意味するわけではない。なんらかのプロジェクトを行おうとしたとき、たとえそこに、「エリート」が必要だったとしても、それは「その人」でなければならない、という理由はない。大事なポイントは、そのプロジェクトを行うと決めたなら、その実行を可能にする「メンバー」の構成は、そこから必然的に導かれる合理的な枠内の話なのであって、最終的にそれを行うことになる各メンバーの「実存」ではない。
そう考えるなら、最も重要なことは、そのプロジェクトを行おうと思うようになった「動機」の方にある、ということが分かるのではないか。
「エリート」の特徴は彼らには自らの内面から湧き上がってくる「動機」を欠いている、というところにある。なぜなら、彼らは「卓越」しているから、なにかをやらなければならない、という理由を自らの中に見出せないから。むしろ、彼らの行動の「動機」を結果として与えることになるのは、「モブ=大衆」の平和への願いにある、と言えるわけである。
「エリート」は、「モブ=大衆」に

  • 巻き込まれる

という表現が正しい。「エリート」は彼らの「活躍」によって、何かの事態が収束した後になって始めて、なぜ自分がこんなことをやったのか、その動機が「モブ=大衆」のある「願い」に「巻き込ま」れる形で行うことになったことに呆然(ぼうぜん)とするわけである...。