八木雄二『哲学の始原』

経験というのは、決定的に私たちにとって、重要であるはずなのだが、そのことがあまり考慮されないのは、どこかにプラトンイデア論の考えが影響を与えている、ということなのではないかと思うことがある。
ある経験をしていない人が、その経験をした人のその経験を果して理解できるであろうか? 大事なポイントは、その経験をしていない人が過去に似たような経験をしているのかもしれない、ということではなく、明確に経験していないだろうと考えられる場合を、ここでは考えたいわけである。しかし、このように言ってしまうと、いや、単純に無理だろ、ということになる。
それは、知らないことを知っているわけがない、という意味で、そうだと言うわけだが、なんというか、ここのところがマジック・ワードになっていて、知らないとは言っても「たいてい」のことを私たちは経験しているんじゃないの(そういう意味で、大抵のことを想像可能)、とは言いたくなるわけである。
産まれたての赤ん坊が、言葉を話し始めるのは、2、3歳くらいからだろうか。よく分からないが、少なくとも「すぐ」に話し始めることはない。そして話し始める頃には、「たいてい」の経験をした後だ、と言うことはできる。
しかし、この場合で言う「たいていのことは経験している」という表現は何を言おうとしているのだろう? ある経験が、「別の経験とまあ同じと言える」という場合、私たちは「日常」において、ほとんど同じというか、似たようなことを繰り返している、という解釈がそこにはある。
つまり、その「始めて」の何かを、なにか別のアナロジーによって、完全ではないとしても説明できないか、ということが問われている、と考えられる。それは確かに始めてであるとしても、その始めてについての何かについての大まかなイメージを別のもののアナロジーによって相手に伝えられるのか。または、そうやって伝えたものについて、そう伝えることになにか意味があるのか。
たとえば、ここで「伝える」と言っているそのことは具体的には何を意味しているのか? それはその「始めて」の何かの、ある一つの特徴であり側面を、別のそれに似たものによってイメージさせる、ということになる。もちろん、そのことに意味はない、と言うかもしれない。例えば、それの色が別の何かに似ていると言われて、それで何かをイメージしろと言われても困るかもしれない。
しかし、こういった方向性は非常に重要なポイントを示している、と考えられる。それは、トマス・クーンの科学論の重要なポイントだったと考えられるからだ。

プラトンが政治家になる野心を捨て、哲学教育の道に進んだ機縁が、ソクラテスとの出会いにあるのはたしかである。しかしプラトンは、ソクラテスをまるまる受けとめたわけではない。実際、すでに述べたように、プラトンは「己を知る」ことを座右の銘にしていない。
彼がのちにアカデメイアの学園の門にかかげたのは、伝えによれば「幾何学を学ばない者はこの門をくぐるな」であった。プラトンソクラテスの弟子ではなく、ピュタゴラスの弟子になったのである。しかもプラトンの性格は、むしろピュタゴラス派のパルメニデスの哲学詩に感じ入り、心を震わせる体のものだった。その詩が若いプラトンを「哲学」に引きこんだのである。
その詩は、哲学者(愛知者)パルメニデスが勇躍する叙事詩である。以下、井上忠訳(読書案内参照)によって概要を紹介する。

ある人物(おそらくパルメニデス)が馬を仕立てた一人乗りの馬車(当時の戦車)に乗り込み、暗闇に包まれた町を後にする。すると乙女たちに守られた厳めしい門があらわれる。しかしその門の錠は、乙女たちがその門内の主、女神に開門を願うことによって、すぐさまはずされ、門の軸受けにきしりを響かせながら、重い門があけられる。過たず馬車はその門の内に闖入する。すると女神のお出迎えがある。女神は正義の女神、裁きの女神である。よくぞ参られたと、女神は歓待し、あなたに真理を教えましょうと言って、一見、不思議な真理を語る。
すなわち、「真理は不変、不動、不生、不滅、完全であって、球のようなものである。存在はただひたすら存在、無はひたすら無である。無から有への変化、すなわち生成はありえず、有から無への変化、すなわち消滅もありえない、そして真理は不動であり、場所を変える運動もありえない」。女神は、これらをよく心にとどめ、そののち、真理ではあい思惑をも学びなさい、と語って、その後、天体の運動が不思議な仕方で語られる。

このパルメニデス作の哲学詩には、ピュタゴラス学派の数学理論を背景にした自然哲学が語られている。じっさい数学的真理なら、その真理は、パルメニデスの詩に言わえているとおり、不変不動であるだろう。それが人間界で理論的に表示されたのは、時間軸上の「あるとき」であったとしても、その真理はもともと永遠の昔からあったものであり、「いつから」と規定することのできない不生のものであり、今後なくなることも考えられない不滅で永遠のものである。

掲題の本の特徴は、プラトンの哲学とソクラテスの哲学を明確に分けているところにあると思われる。つまり、ここまでクリアカットにこの二つを分けているものは、めずらしい印象を受けた。
上記の引用を見るに、ようするに、プラトンというのは哲学者ではなく「政治家」なんだな、というのがよく分かるのではないだろうか。もう少し言えば、宗教家と言ってもいい。プラトンソクラテスの最後について記述をしたことで、彼の最初の学問活動を始めたわけであるが、それは、

  • ジャーナリスト

としてソクラテスを「観察」した内容を書き残した、ということを意味しているに過ぎない。
プラトンにとって、ソクラテスは理解する相手ではなかった。ソクラテスが彼にとっての何かであったことはない。最初から理解することに意味があると思ったこともないし、理解したいと思ったこともない。なぜなら、プラトンには最初から、ピタゴラス学派であり、パルメニデスという「答え」があったから。それに比べれば、ソクラテスとは

  • ノイズ

にすぎない。プラトンがやりたかったのは、ソクラテスが言おうとしたことではなく、パルメニデスが言っていたことを発展させることで、もう一度、政治家としての野心を叶えることだった、と言うこともできるであろう。パルメニデスの自然哲学の発展させた先に彼が構想した「イデア」論によって、政治家となる(=他者支配をする)「能力」を獲得すること。そういう意味では、プラトンとは「魔術家」と言ってもいい。

「普遍」を示す語(たとえば、人間、馬)は、「存在する何か」を示しているのだろうか。それとも、それは名前にすぎず、存在判断には触れないのか。あるいは、むしろ「無」なのだろうか。「人間」は存在するのか、それとも「人間」は存在するとは判断できないのか、判断するとすれば、無と判断すべき(天上界の視点からは、地上界のものは無に等しいが、その逆に、地上界のものこそが目に見えて存在するなら、天上界のものは、見えないのだから、無である)なのだろうか。
前者の立場、すなわち「人間」(普遍者)は存在する、と判断する立場が「実在論」であり、後者の立場、すなわち「人間」(普遍者)は存在するとは判断できないあ、無であると判断する立場が「唯名論」である。
後者の立場では、存在するのは具体的な個物のみである。普遍は存在判断できないか、さもなければ無であると判断される。では、「神」は存在するのか。「神」の語は、「人間」の語と同様に普遍語であるので、中世の普遍論争は、「人間」の問題で見たような論争が「神」について起こることを示している。つまり普遍論争は、神の存在論争と実質的にだぶるのである。このことに気づいた教会側の神学者は、こぞってこの問題に取り組んだ。

さて、数学は「普遍」なのだろうか? 私はプラトンイデア論、つまり、数学(=幾何学)が「永遠普遍」だ、といった議論に徹底して反対だ。そういう意味では、徹底的に「唯名論」であるわけだが、そのことは、いわゆる現代の哲学者が語る

に徹底的に反対だ、ということになる。
数学とは何をしているのだろうか? 数学はある形式の記述である。例えば、ユークリッド幾何学において、点は「大きさをもたない」となっているし、線は「太さをもたない」となっている。ところが、私たちが一般に「幾何学」と言う場合に、紙に書くものには、言うまでもなく、点に大きさがあるし、線に太さがある。ということはどういうことかというと、紙に描いている方のものは「アナロジー」に過ぎない、ということを意味している。
数学とは、公理系と呼ばれるものから作られる論理体系だと数学基礎論から解釈されるわけだが、このことをヒルベルトは「有限の立場」と言った。つまり、その論理体系が「対象」としているものが、どんなに「無限」を含んでいてもいいが、少なくとも「それ」を記述する、「この」論理体系は有限の文字列の有限の「操作」によって作られるものに限定する、ということを意味する。つまり、数学は無限ページを必要とする本ではなく、たかだか有限のページをもつ、普通の本で書けなければならない、ということになる。
つまりは、有限の文字列操作なのだから、もっとくだけて言ってしまえば、幼稚園の子どもが大好きな「積み木」の並べ変えと、本質的に変わらない。ということは、それくらいに「直感的」に正しそう、ということを意味する。
こんな例が分かりやすいかもしれない。あなたが使っていうパソコンは、一度電源を落として、再度、起動をすると、以前起動したときと同じような画面がでて、同じようなスタートアップ画面になる。これは、コンピュータという「積み木」並べ変え装置が、

  • まったく同じ「操作」

を繰り返したから、前と同じ結果になった、ということを意味しているわけで、そのことと「数学」の「相同性」は同じことを意味していると言える。
コンピュータが同じ計算をすれば、同じ結果になる。このことはいいわけである。問題はそうではなくて、その文字列の操作体系と、

との間に、なんらかの「関係」があることを「直観」できている、ということの方にある。つまり、なぜその文字列体系と、そういった個々の紙の上に描かれる幾何学図形を

  • 対応

づけられるのか、というところに。この対応関係が「うまくいっている」ということを、トマス・クーンは彼の科学論において、

  • 科学者集団

における「練習問題」の意味において、示唆したわけである。
このことは、集約すると、なぜ私たちは子どもの頃、「言語」の習得に「成功」するのか、ということになる。
このように、個々の人間に対して、この「人間」という概念を「唯名論」の立場で考えるなら、ここでの「人間」という概念は、ユークリッド幾何学における「点」や「線」と同じで、上記の議論の文脈で言うなら、「文字列」の並べ変えの「一つ」に過ぎない、つまり「唯名論」だ、ということになる。数学において、こういうものを「同値類」というが、それは「集合」がなんなのか、と問うていることに似ていて、一般的にある対象を「同値律」によって、一つの「集合の集合」としてしまい、

  • それ

の性質を考えることはよくやる話である。しかしこれをたんに「唯名論」と言ってしまうと物足りないのは、それがたんなる「記号」ではなく、「モデル」として、体系化(公理化)されている、というところに特徴がある。
つまり、もともとの最初の話に戻るなら、個々の人間を「存在」と考えるとき、本当にそんなことができるのか、と問うことさえできるだろう、ということなのだ。つまり、個々の人間は、その人をとりまく「環境」との相互作用によって、そのようにあると言えるのだから、最初から独立して考えること自体に無理があるんじゃないのか、とすら言いたいわけである。もしも「存在」というものを考えるなら

  • この宇宙

という存在を「一つ」のものとして考えなければ、まともな立論になっていないんじゃないのか、と。
トマス・クーンの科学論はある意味、そのことを意味しているわけで、人間が産まれて言語を習得していくにはそこに、「科学者集団」と同じようなものとして「人間集団」がいて、言語という科学の道具を「習得」させていくことに成功してきた、人間集団の營みがあったことが前提にあり、これこそまさに、個々の人間とその人をとりまく環境との相互作用の一つなわけであろう。こういった成功した範例の積み重ねから、なぜかは分からないが「伝承」できてきたものが、言語なのであって、幾何学もその言語の一つにすぎない。そうであるなら、その言語の継承と同レベルで、幾何学の「解釈」が成功するかどうかも「賭けられている」と言えるわけであろう。
なぜ科学は続いているのだろう? それは、以前問題にした、カンタン・メイヤスーの言葉でいえば「非理由律」ということになる。なぜ、英語であり、中国語であり、日本語でありは、なくならないのだろうか? いつかのある時期に、「伝承」に失敗して、ある世代から以降、にだれも英語も中国語も日本語も話せなくなる日が来るのだろうか?
掲題の著者によれば、こういった「方向」、つまり、なんらかの「知識」の獲得を目指すような方向は昔からあった内容であり、別に、ソクラテスにその「出発」を帰せられるようなものではない、ということになる。では、ソクラテスはなにを言ったのか。どんな、新しいことを言ったのか?

人は自分が気づいたものを直接自明なものとして受けとる。それは経験している当人にとってはまことに確実なものである。だから幸福は、ソクラテスには自明であった。だが、だれにとっても共通に自明というものではない。気づいたソクラテスには自明でも、気づかないプラトンには自明ではないということが当然起こる。だれにとっても経験的に自明なことを根拠にできるときのみ科学が成立するのだとすれば、幸福についての知は、けして科学にはならない。
三者に自分の幸福を感じてもらうことはできない。幸福は自分の心が幸福であることであって、他人の心の幸福は、自分の心の幸福とは別のものである。同じ状況にいても、ある人は幸福であり、別の人は不幸である。
幸福がわかりあえないと同じく、不幸もわかりあえない。ただし、「幸福に見える」か「不幸に見えるかはわかりあえる。なぜなら「見える」ものは、多くの人に共有可能、すなわり他者にもそのように見えるからである。
ソクラテスが弁明で言っていたように、一般の人々はしばしば、「幸福に見える」だけのことを「幸福だ」と勘違いしている。それゆえ、ぜいたくな暮らしや欲望の満足や快楽を幸福と勘違いする。不幸についても同様に、たとえばソクラテスの生活が不幸に見えるから、ソクラテスは愚かで不幸なのだと市井の人は判断する。そして実際、かなり多くの人がそのように判断していたらしい。

ところで、幸福を「目標とする」ことは間違いであると先に述べた。幸福を目標にすると、幸福は遠く離れたものになるからである。それと同じように、美徳を獲得目標として努力するのも同様に誤りである。
プラトンなどは、美徳を獲得目標とするために、その何であるかを追及した。しかしソクラテスが問答で美徳の何であるかを追及したのは、それについての自分の無知(説明できないこと)に気づくためであった。無知という説明のしがたさに気づくことによって、人はむしろ実際の行動ないし日常における、絵ではない本物の美徳に気づき、実践できるのである。
プラトンの誤りは明らかであって、幸福がそうであるように、美徳が「目標」とされるなら、いつまでたっても獲得しがたいものとなる。いつまでも獲得しがたければ、いつまでも人は「よく生きる」ことができない。

ソクラテスが言ったのは「無知の知」である。これは、知ろうとする努力が足りないとして、それを動機づけることが目標とされたプラトンの哲学とはまったく違っている(プラトンの言っているのは、パルメニデスの言うような「イデア」に近づくことなのであって)。
上記の例が分かりやすいが、自分が「幸せだ」と思っている「それ」を、絶対に他人は分からないという意味で、人間一人一人は

  • 孤独

だ、と言っているわけである。この絶対的な孤独を分かれ、と。そういう意味では、これはカントの「有限の人間の限界」を知ることと似ていると言えるのかもしれない。
プラトンが言っていることは、しょせん「おたく」が自分が集めた「知識」をひけらかすのに夢中になっている姿に似ているわけで、ほとんどプラトンが言っていることは、パルメニデスの「哲学」の口パクだと言っていい。そういう意味で、なにか新しいということがあるわけではない。
対して、ソクラテスが言っていることはどこか、多くの宗教家が語ってきたことと似ている。ソクラテスはこういった、この世界に「孤独」にぽつんととり残された私たち一人一人に、「よく生きる」とはどういうことか、と語りかけたわけである...。