立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件 優性思想とヘイトクライム』

今回の日露会談において、たんにロシアにお金をあげただけで、4島返還がまったく進まなかったことについての、安倍首相の態度は、多くの人に違和感を与えたわけであるが、それで思い出したのは、安倍首相のおじいちゃんの岸信介が、戦中に官僚として、満州でアヘンに関わっていたという話である。その財産で、戦後、日本政治にのしあがってきたのであろうが、そもそも、アヘンは日本が明治革命を行うことになったきっかけであり、欧米の「アヘン戦争」から東アジアを守らなければならないというのが大義だったはずなのに、日本そのものが、中国に対して「アヘン戦争」を行っていたことの証左だったわけで、一体何が起きていたのだろう、ということについて、前のブログで、そのことと福沢諭吉ナショナリズムとの関係について書かせてもらった。
安倍首相が尊敬するおじいちゃんの岸信介は、戦中における中国での日本軍によるアヘン・ビジネスで財産を作って、戦後の日本で総理大臣にまで登りつめた。しかし、そのアヘンは、私たち日本人が欧米列強と戦う

  • 理由

だったはずではなかったのか。私たち国民が日本の戦争はきっと「正義の戦争」なのだろうと思って、必死に今を生きている間に、岸信介は中国で、アヘンで「大儲け」をして、ウハウハだったわけだ。アヘンという、日本が明治革命を行う「大義」であったはずの

を行うことで、日本の戦争を欧米列強の「仲間」に入るという「悪」の

を行って、大儲けをした、というわけで、こんな「おじいちゃん」の財産を引き継いで、日本の総理大臣にまで登りつめた、安倍総理というわけなのだが、まあ、安倍総理は、

  • こういうことを含めて

岸信介を尊敬しているわけで、安倍総理にはそういった意味における「非国民」の素質があるのであろうw
例えば、生前退位を巡る日本会議の態度を見ていると、彼らにとっての「天皇」とは、安倍首相なんだろうな、というのが分かってくる。それは、戦中であれば、東條英機が実質的な天皇であったように。そういう意味では「摂政」政治こそ彼らの理想なのであろう。東條英機は、だれよりも早く、昭和天皇の足元にぬかづくような人だったという意味では、昭和天皇に丁稚奉公をしていたと言ってもいいのであろうが、ようするに、こういう人こそ、システムの中では無敵なんだろう。一番「偉い」人がだれよりも、天皇の足元にひざまづくのであるから、もう、だれも何も言えなくなるんだよね。一番偉いリーダーが黙って、天皇の前では従順に従っているのに、一体、国民のだれが、自分の意見なんて言えるだろうね。こういった

  • リーダーが宗教的な従順さを演じることで、回りの「同等」の従順さを「強いる」

ことの怖さですよね。
例えば、今、防衛予算を何倍にもして、南スーダンから撤退しないとかやっているわけだけど、それもこれも、防衛大臣の稲田明美が「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」という理由でやっていると考えると、おそらく、稲田は

を始めると思っている。彼女の「狂気」に狂った目を見ていると、いつ、どんなことが起きても不思議じゃない(国会で急に泣き出すような奴ですからねw)。
以前に、某自称批評家が、ある対談で、自分は自殺賛成論者だ、みたいなことを書いていたことがあって、私はこういう人とは絶対に分かりあうことはないんだろうな、と思ったことがある(とにかく、こういう人とはお近づきになりたくない。近づいたら「自殺しろ」と、マインド・コントロールをかけられそうで、おっかない)。
ということは、私は自殺反対論者なのだが、そのことの意味は、私は「自分は自殺賛成論者だ」と言わない、という意味であって、自分がなにかのタイミングで、自分が自殺を選んでしまうような考えに至って、そのまま行為に走ってしまうことが絶対に起きないとか、そういったことを保証するとか担保するとかいった話をしたいわけではないし、それは他人に対しても、そういうものなのだろうと思っている。
なぜ私が自殺反対論者なのかといえば、理由は単純で、結局死んでしまったら、「やっぱり止めればよかったんじゃないか」と考えることができないからだ。
例えば、過去の歴史をふりかえるなら、古代ギリシアの哲学者であるソクラテスを始めとして、自殺をしながら、後世において、その人の生きざまは立派だったと評価されている人がいる。だったら、自死を選ぶことには、なんらかの「尊厳」があるのではないか、と考えがちな印象を受けなくはない。
しかし、一つ立ち止まって考えてほしいわけである。あなたは今、自分は自殺をしようと考えていると思ったとしよう。しかし、その考えは、本当にあなたが考えたことなのだろうか。だれかのマインド・コントロールや催眠術によって、そう考えさせられているという可能性はないのか。つまり、あと何日、何ヶ月か経った後には、そういった考えが「悪い夢を見ていたような」感じに思われて、もう死にたいなんて思わなくなるということが起きないと言い切れるだろうか。
私はもしも人類が滅びるとしたなら、おそらく「集団自殺」によって滅びるのではないか、と思っている。つまり、みんなが「自分は自殺をしたい」と思っていると集団的なマインド・コントロールをされて、みんなが一斉に自殺を始めることによって、だと思っている。そういう意味では、私が自殺反対論者なのは、なんとかして人類が生き残る道を探したいから、と言ってもいい。
しかし、似たようなことを掲題の著者の一人の立岩さんも言っている。

自傷と他害とは、普通、おおいに異なる。この異なる二つを「自傷他害」と終始つなげて使うというのは明らかに乱暴なことだから、普通に二つに分ける。
そのうえで前者について。常に本人の「自己決定」のとおりに常にすべきだとは言えない、パターナリズムが正当化される場面があると、最初の本以来ずっと書いてきた。それらで書いてきたことは「自傷」「自殺」を念頭においてのことだった。

障害ゆえに判断を誤つからパターナリズムを、と主張する----この場合には比較的パターナリズムが正当化されやすい----のではなく、意識が清明で理性的な判断としてなされている場合になお言えることを述べたつもりだ(このたびの事件についても、その水準で議論がなされるべきだと私は考えるし、そのことはさきの共同通信配信の文章でも記してある)。そして医療において救命義務はあるだろう。とすればそのことをもって、ときに本人の意に反することを医療者が行なうことは正当とされる。

もしも人間を「自由」な存在と考えるなら、なぜ「自殺」を許さないのか、ということになる。自殺を許すことと、自由であることは、不可分な両輪のように思われる。ところが、自殺というのは言うまでもなく「死ぬ」のであるから、後から「反省」することができない。そう考えると、自殺は、人間が行う「行動」の一つと考えることには無理があるんじゃないのか、とさえ思えてくる。
例えば、自殺の「失敗」について考えてみよう。ある確率において、必ず自殺は「失敗」する。しかしその場合、それを「自殺」と呼ぶことは正しいのだろうか。自殺の失敗によって生き残った人は、「死んでいない」。今死んでいないことを、自殺を「した」ということは矛盾していないか。今死んでいないのなら、その人は自殺をしていない、ということになる。というか、その人が「自殺をした」ということをどう証明するのかが分からない。もしかしたら、自殺をまぬがれるための小細工をやっていたのかもしれない。だれにも判断できない。
なぜ自殺を許すべきではないのか。なぜなら、もしも自殺を許すとするなら、人間は人間を「殺す」ことが許される、ということになるからだ。つまり、どういうことかというと

  • 境界値問題

の隘路にどうしてもはまってしまう。
もしも「人は人を殺してもいい場合がある」とするなら、じゃあ、どこからどこまでが殺してはいけなくて、どこからどこまでが殺していいのか、という問題になり、まさに、ピーター・シンガーの初期の主張となるであろう。
例えば、植松容疑者は報道によれば、多重障害をもった人を「選んで」殺していたと言われているし、また、もしもそういった障害者でも、その人の親族が殺すのに反対をしていたなら、殺すべきじゃなかった、と反省していたと言われている。
このことから分かるように、植松容疑者は、必死でその「境界線」を探していたことが分かる。例えば、青い芝の会の横塚晃一や横田弘が言ったことは「私を生きさせろ」だったわけで、そういう意味では、植松はそうやって「自分で主張できる」障害者は生かそうとした、と考えることもできる。こういったアプローチは、ピーター・シンガーが「だれから」も、その子供を生きさせようという意志のない場合に、「功利主義的にだれの幸福計算にも依存しない」という意味で、社会的な殺人が認められるのではないか、と考えたことに敷衍する。ある生まれた段階で極度に重度の障害があった場合に、なぜ社会的な「安楽死」が認められないのか、と。
しかし、ピーター・シンガーの主張の主題はむしろ、

  • なぜ妊娠中絶は許されるのか?

の方に深く関係している。それは彼の「動物人権論」とも深く関わる。なぜお腹の中にまだいて、母体の外にまだ出てきていないという理由で妊娠中絶という「殺人」が許されるのか。それは、なぜ動物を殺して食べていいのか、という彼の主張に関係している。
つまり、そこに明確な「境界線」を合理的に引いていないんじゃないのか、というわけである。
しかし、こういった論旨の立て方は少し、一般的な人々の感情とは違っている印象があるわけで、少なくとも妊娠中絶は、母親の体と体内の赤ちゃんは「繋がっている」、つまり、母体と一体のもの、という解釈があるわけであろう。だから、基本的には母体の体調を優先すべき、というポリシーがあって、母体を危険にさらしてまで子供の出産をがんばるべきかどうか、という一定の線はあるのだろうと思っている。
ようするに、ピーター・シンガーの理屈はこの前も書いたように、ゴドウィンの地球の裏側まで含めた「公平主義」と非常に近い発想なわけで、私たち人間が自分の身の回りの人々を自分と「同じ」と考えるレベルと同じように

  • (おそらく、存在するであろう)地球の裏側の人々

を考えるべきだ、という「哲学」であり、その延長で「動物も自分の身の回りで暮らしている人々と同じに考えるべきだ」という「哲学」になっているわけで、ようするにそれが「振る舞い」として、なにを意味しているのか明確じゃないのだ。地球の裏側にいる人とは具体的にだれなのか。会話をしたことがあるのか。その会話で相手とどんな内容について、意志の交換や合意が達成できたのか。同じように、ここで言っている動物とは「誰」なのか。どんな名前なのか。相手はあなたのことを名前で呼ぶのか。呼ばないなら、なぜ呼ばないのか。どんな意志の交換や合意が達成できたのか。また、それはどうして分かったのか。
なにが言いたかったかというと、ようするに、ピーター・シンガーの言う「地球の裏側の人間」とか「動物」というのは

  • 科学

が証明するようなたぐいの「形式的」な存在なのであって、つまり、地球はどんな原子からできているとか、光はどれくらいの速さで移動するとか、そういった主張と同じレベルで「地球の裏側に人間がいる」とか「動物は人間と同じ生物である」とか言っているのと変わらないわけである。それは「科学」の主張なのであって、科学を思考の出発点にする限り、こういった混乱はまぬがれない。科学はその「存在」を主張するが、民主主義は

  • 私が確かめたもの

に関する、集合知の世界なので、レベルが違うのだ。
前回も書いたように、ピーター・シンガーはそういう意味では、ある程度の「転向」をしている。それは、R・M・ヘアの功利主義の二層理論に関係したものなのであって、ようするに、あまりにも「一般論」や「道徳というルール」を自分とは遠い存在に、自分の身の回りの人に対するべき倫理を

  • 適用

すると、今度は自分の身の回りの人に対する「優しさ」を犠牲にしなければならない、といったような倒錯した倫理になってしまう(ピーター・シンガーがカントの義務理論と対決する延長で、道徳を倫理と呼ぶようになった時点で、あらゆることの混乱が始まったのであろう。しかしそれは、自らを功利主義者と言っている時点で、もはや滅茶苦茶なわけで、しょせん、功利主義とは例えば経済学の「計算」で利便的に使われる「目安」でしかないわけで、なぜそれの「主義者」になれるのかが私には最初から分からない。そんなものが「主義者」なら、なんらかの計算機を「主義者」と呼んでいるのと変わらないわけであろう)。
私が自殺反対論者だ、ということから、いろいろ書いてきたが、私が言いたかったのは、そういった「殺していい境界線」のような議論は、結局、こういった「功利主義」的な議論になってしまい、その「境界線」を探求する、植松容疑者のような存在を次々と生みだしていくだけなのであって、あまり前向きな話じゃない、というところになる。
いずれにしろ、掲題の著者の一人の立岩さんが今度は、「他害」の問題をどう言っているかは以下になる。

刑罰を否定しているわけではなく、犯罪への対処を否定しているわけではない。加害的な行為をしているというそのことによってその人が捕縛され罰せられることは認められる。現在犯罪とされるものの範囲をどう考えるかという問題は残るにせよ、犯罪としての加害に対してはそれに対応する職・人がいる。基本はそちらにということになると考える。
誰が対処するにしても、確率によって、未来の可能性によって対処することが望ましくないことは言える。基本、現時点での行ないに対応することにする。さきの共同通信の短文では「ごく短く言えば、「現行犯」として対処するべきだし、対処できると思う」と述べだ。確率、予測に基づく強制処置は侵害的である。加害は加害として、行為として顕在化した場合に、取り締るなりすればよいというのが基本となる。
もちろん実行と予告とは異なる、殺人の予告は殺人ではない。だが、予告自体が加害行為である。しかじかの人々は死ぬべきであるという発言も加害行為である。だから拘束等の対象とはなりうるということである。

ようするに立岩さんが言っていることは、基本的に今で「困っていない」のだから、これを続けるべきだ、ということになるのではないか。例えば、元フジテレビアナウンサーの長谷川豊が透析患者を殺せと言った件についても、少なくとも今の国家予算のレベルを考えれば、透析患者を生きさせる「お金がない」ということは言えないわけで、それで「殺さなければ、この世界が終わってしまう」みたいな議論は本末転倒だ、ということになるであろう。
同じように、青の芝の会の人たちの「自分を生きさせろ」にしても、そのための福祉を払ったからといって、国家予算から比べれば、あまりに影響ないレベルなわけで、それで「殺さなければ、この世界が終わってしまう」みないな主張は言い過ぎというわけである。
しかし、こういった言い方はどこか「功利主義」に似た印象があるわけで、あまりいい説明には思えない。
例えば、こんなふうに考えたらいいのではないか。この世界に「神」がいて、もしその神が、この世界の「あらゆる事象」に精通して、だれが天国に行くべきか地獄に行くべきかを「公平」に判断していたとしよう。しかし、人間にはその芸当はできない。なぜなら、私たちは、たかだか有限な存在だから。私たちは本当の意味でのルールを作ることはできない。だからこそ、その場その場で一人一人が実践的に選択していくしかない。なぜなら、私たち人間は神ではないのだから。
一人一人がそういった実践的な行為において「合意」してきたのが、立法・行政・司法の三権における「司法」の役割となる。今回の事件が殺害された人数の多さだけでなく、もう一つ、特異であったのは、植松容疑者が

  • 安倍首相

に手紙で語りかけていたところにあったと思うわけである。そもそもその手紙の内容は、明らかな「犯行予告」であった。なぜそれが刑事手続き的に犯罪行為として扱われなかったのかには、なんらかの「安倍首相=独裁者」に対する回りの「手心」があったのではないかと推測できる。しかし、もしもそれがこれだけの犯罪に発展したのだとするなら、重大なわけであろう...。