蝶名林亮『倫理学は科学になれるのか』

私たちが一般に「道徳」と呼んでいるようなもの、つまり、「善」とか「悪」と呼んでいるものが、結局のところ、物理学的な意味で、この世界に存在しないんだから、そんなものを考えること自体が無駄なんだ、ということを言う人が今でもいるわけであるが(そういう人ほど、お涙頂戴話などと言って、鬼畜の所業をやらない奴の方が、経済的な利益追求を目指さない「頭の悪い奴」とか言って、嘲笑する)。
ようするに、経済学のような「利益追求」を考えるなら、道徳なんていうものに従っているから、東大に合格できないし、お金儲けができない。あらゆることは、法律で許されていることは、なにをやってもいいのだから、法律の範囲で、あらゆる「悪」を行えばいいんで、

  • 悪を行えば儲かる

というわけである。
こういった主張は一見すると説得力があるように思われるわけだが、一つ問題があるとするなら、なぜ一般に「道徳」と呼ばれているようなものは、かなりの「蓋然性」があるのか、というところにある。つまり「善」とか「悪」と呼ばれているものは、かなりの割合で

  • だれが言っていることも、それが「善」であり「悪」であるということについては、大まかな「合意」が成立しうる

というのは、一体なんなのだろうか、という問題があるわけである。
では、なぜ「道徳」は、物理学のようなものとして「善」や「悪」なんて存在しない、といったことが言われるのだろうか?

日本を含め、多くの文化圏で道徳・倫理を支えていたのは通常の経験的な方法では捉えきることができない神や超自然的な存在であった。そのような文化圏では「なぜ嘘をついてはならないのか」といった問いに対して、「そんなことをしたら(超自然的な存在によって引き起こされる)罰があたるから」といった説明がなされる。グローバル化が進む昨今、ある1つの文化圏の世界観を全ての人々が共有することは難しい。そこで問われるのは、そのような神や超自然的な存在を含む世界観を認めなくても、道徳や倫理が想定している義務や価値が存在すると主張することができるか否かであろう。

ニヒリストや懐疑主義者がどんなに、道徳の「嘘」を主張しようとも、世の中全般的には、そういった「道徳」には、一定の「合意」があるかのように、人々に認知されているし、その認識が大きく外れることはない。だとするなら、こういった道徳にはなんらかの「根拠」のようなものを考えることは自然なのではないだろうか。
道徳の場合、なにが問題なのかというと、概ね、その内容に対する評価ということでは、道徳は大きな意味で人々に普及し内面化されてすらいるわけだが、ただ一つ

  • これが何か

が、よく分かっていないわけである。道徳とはなんなのか。もちろんそれがなんだったのかについては、上記の引用にあるように、ある時期までは、多くの人々にとっては自明であった。それは、彼らがなんらかの「宗教」を生きていたから、その中で、

  • 合理化

しておけば、それ以上について考える必要はなかった。
しかし、現代においては、もはや、神とか超自然的存在とかを言っていれば、なにかを語ったことになるような時代ではなくなった。しかし、そうすると途端に、じゃあ「道徳」とはなんなのかが、急に「不安」になってくる。
掲題の本ではそれに対する、幾つかのアプローチが紹介されているが、その中で最も「合理的」な手段が、自然主義的アプローチと紹介されているパターンで、ようするに、

  • 道徳「も」自然科学「のように」やれるはず

という主張になる。これは一見すると、最初に言ったことと矛盾しているように思うかもしれない。しかし、よく考えてみると、これはかなり自然なアプローチであることが分かるわけで、というのは、私たちにとって、自然科学的アプローチ以外に、なにかの「正しさ」を考えられる方法がないからなのだ。当たり前だが、道徳的文章の

  • 大半

は普通の、自然科学的な文章である。つまり、そういった要素の部分は、当たり前だが、自然科学的に真偽を判断できる。そう考えるなら、おそらく、それらを含む、道徳的文章も

  • それに類似した、自然科学にかなり近い「真偽判断」ができるのであろう

と考えることは自然なんじゃないのか、ということになる。確かに、そういった結論になることは理解しなくもないのだが、具体的にはそれはどういうことなのか、ということになるわけであろう。
早い話が、現代における、なんらかの「正しい」ということを主張する体系は、そもそも「自然科学」の手法以外にないわけであるし、だとするなら、道徳的な主張がそういったものの「アナロジー」によって正当化されない、というのもおかしな話なんじゃないのか、と言うことは、そこまで問題があるわけではない。
自然科学の特徴を、なんらかの「予測可能性」であり「モデルによる演繹性」なりと考えたとき、おそらく、ある程度において、道徳的な判断においても、そういった性質があるんじゃないのかと考えることは、一般的に思われる。
しかし、その場合に一つの注意が必要になる。

道徳における可謬主義とは、我々は自分たちが現在持っている道徳判断に関して、たとえ優れた正当化を持っていたとしても、偽である可能性を許容するべきであるという主張である。このような可謬性の想定は道徳に関する議論の中で一定の寛容さを保つことを可能にするものであり、重要なものであろう。
もし私が自分の道徳判断が間違っている可能性があることを意識していた場合、自分とは異なる道徳的見解に対してある程度寛容であれるだろう(Brink 1989, pp. 92-5)。
道徳的実在論に恐れを抱く人は、道徳的実在論がこの可謬主義と衝突するのではないかと考えるかもしれない。それは、可謬主義と、道徳判断の認識的客観性から導き出される「見解が異なる道徳判断は同時に真にならない」という考えが、両立しないと思われるからである。私が「Aは悪い」という判断をしたとして、それを信じる正当な理由も持っていたとしよう。さらに、私は道徳的実在論も受け入れていると想定しよう。道徳的実在論が真であった場合、「Aは悪い」という文で表される命題と、「Aは悪くない」という文で表される命題が共に真であるとは考え難い。このことから、自分の判断が正当であることを信じる理由を持つ私は、自分の判断は真であり、これを否定する考えは偽である、という態度を取ることが自然であるように思える。自分の判断は正しく、それを否定する考えは間違っている、と考えるということは、可謬主義を否定することである。このように考えてくると、道徳的実在論と可謬主義は両立しない考えであるようにも見える。
このような考えに対して、筆者は認識的客観性を保持する道徳実在論が道徳的可謬主義と両立しないとすることは謝りであると考えている。むしろ、認識的客観性によって道徳判断の可謬性を確保することができると筆者は考えている(Sturgeon 1986, pp. 119-20, pp. 127-9)。共に道徳実在論が真であると考えているタロウとジロウがいたとして、タロウは「奴隷制度が許容されるべき場合もある」と信じている。一方で、ジロウは「奴隷制度が許容されるべき場面もある」と考えている。このような場合、彼らは道徳実在論者であるが故に、同時に道徳的可謬主義者にもなれる。たとえそれぞれの立場から見て信じるに足る証拠を持っていたとしても、彼らの道徳判断が真か偽かは心的作用からは独立した道徳的実在に依るのであるから、彼らは自分たちの考えが間違っている可能性を想定する理由がある。
むしろ道徳判断の認識的客観性を道徳的性質の存在論的客観性によって確保することができない非実在論者、反実在論者が道徳的可謬主義を擁護することは難しいだろう。もし我々の道徳判断の正確性に客観性がないのであれば、我々の道徳判断が間違っていうと考える理由がなくなってしまうように思える。

私たちが一般に「科学」と言うとき、例えば、一定の放射能を浴びれば、かなりの確率で癌になるということが分かっている、というような主張のように、その事実をくつがえすことが難しい、といったような主張と思われている。つまり、そのことと、可謬主義は一見すると両立しないように思われる。
しかし、ある見解とそれに反する見解を、お互いが「正しい」と主張することは往々にあるし、その場合に、

  • 道徳は「科学」なのだから、どちらかしか正しくない

と語ることは、非常に貧しい言語ゲームであるだけでなく、恐しい結末を迎えることにもなりかねない。つまり、もしも道徳が「科学」であるなら、私たちはまるで「科学法則に従って生き<なければならない>」と言われているように感じてしまう。
しかし、道徳の自然主義的アプローチとはそういうことではなく、その道徳の「正しさ」の構造が、科学における言語ゲームと同じ構造になっているのだはないか、というその「アナロジー」がどこまで主張できるのかを考察するもので、そもそも完璧な道徳理論など存在しないわけである。
あらゆる「理論」は、なんらかの現象の「単純化」であり、それは、ニュートン力学相対性理論の、あるマクロな現象の「単純化」という意味では、概ね正しいということであるのと同じように、どんな「理論」もそういった、それぞれの

  • コンテクスト

に依存した「単純化」をまぬがれない。そういう意味では、どんな「理論」も、その

  • 誤解

をまぬがれない。というか、だからといってそれを「精緻化」すれば、分かりやすい、誤解のない理論に発展するというわけでもない。そんなに単純ではないのだろう...。