杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何か』

掲題の本は、2005年の初版となっているが、基本的にはアベノミクスが始まる前の、円高ドル安時代の次々と労働環境が「派遣中心」になってきた時代の空気を代表するものなのであろう。
もちろん、今も労働環境は厳しい。というか、その「派遣」中心型の労働環境は、この十年くらいで完成したのではないか、と言うこともできるであろう。実際に、中小の企業への正社員は、どこか「派遣」に近い様相を示している、と考えることもできる。アベノミクスによる円安は、おそらく、企業にとって仕事の量を増やすインセンティブとはなっても、そこにおける労働とは、派遣による

  • 調整弁

といった印象を受ける。つまり、不況になって真っ先に切られるのは、そういった派遣労働であって、おそらくこの本が言っている「フリーター」も、そういった「不安」についての何かを書こうとしているのであろう。
当時の日本国内の雰囲気は、今のトランプのアメリカと同じく、中国などの労働力の安い市場に、仕事を取られるという実態があった。実際、多くの工場が中国に移転して、多くの労働者が露頭に迷った。早い話が、そんな理不尽が起きていいのだろうか、といった気持ちがあったわけである。
私なりにことのことについて、いろいろ考えてみたが、例えば、こんなふうに考えてみたらいいんじゃないだろうか。工場が移転する先の物価の安い地域の労働者は、今までよりは少し「まし」な賃金がもらえるので、それだけでうれしいであろう。他方、工場が逃げた先進国の地方の労働者は、そもそも物価が高い地域なのだから、そこから「落ちる」生活レベルが大きい。
しかし、である。
資本主義的に考えるなら、そういった人たちは少なくとも、目先の生活をしのげるくらいの貯金はあるわけである。だから、すぐにはその「危機」はあらわれない。解雇されて、実際に仕事探しを行って、何年もなかなか次の単価のいい職がないことに気付いて、始めて、この事態の深刻さに気付いていく。
そう考えると、これは一種の「錬金術」なんじゃないのか、ということに気付いていく。今、単価の高い労働者を根こそぎ解雇して、全員を、メキシコや中国の単価の安い労働力に変えれば、

  • ものすごい利益

が経営者の手元に残る。しかし、それでいいのだろうか? なぜなら、お前が解雇した労働者は、お前の「国」の国民なのであって、国民を貧しくすることで「儲ける」ビジネスが、持続可能なものなのだろうか?
早い話が、国民を貧しくすればするほど、儲かる。
掲題の本は一つ、重要なことを指摘している。

OJT(On the Job Training=職場内教育)やスキル育成のチャンスから切り離されて雑務や単純労働に延々と忙殺される人々は、仕事の最低限の「手応え」を感じ取れない。少なくとも感じ取れないことが多い。成長の感覚も希薄になる。そのことが日々、曖昧だがリアルな不安を内面に蓄積し、鬱血させる。労働意欲や最低限の自信や肯定感を凍えたみたいに縮減させていく。コンビニ、スーパー、ファーストフード、ウェイトレスなどの販売・サービス業だけではない、今や下請会社などの製造の現場にもフリーターは「景気の調整弁」として余す所なく「活用」されている。玄田によれば、泥沼的疲労と消尽は、若年正職員の現場でも同様だ。もちろんぼくの周りにもそういう正職員は山ほどいる。文字通り、「ひと山いくら」の名前なき労働者として。

[8]考えるべきなのは、賃金格差や社会保障の格差だけでなく、仕事内容の格差----そこから生じる未来の衣食住の決定的格差----である。

流行語大賞にノミメートされた、保育所落ちた、日本SHINE(=死ね)については、いろいろ語られているが、いずれにしろ、これを「きっかけ」にして、保育所職員には実質的な国家からの

  • 賃金援助

が行われることになり、今より、4万円くらいは月の収入が上がると予想される。そもそも「必要」なものに、必要な手当てをしなければ、こういうことになるわけであって、これこそ

  • 国家の終焉

を意味していたわけである。驚くべきことに、この国の保育所は「足りなかった」にもかかわらず、国家はなんの手立ても行わなかった。そりゃあ、

  • 日本が滅びる

よな。あのさ。ネット上で「日本死ね」に怒っているネトウヨは、保育所がなくて、働けない女性を大量に生み出すような「この国」が、「滅びる」のは、時間の問題だとなぜ考えないんだろうね。女性を働けない状態にして、それでこの国は「生き残る」の? 馬鹿馬鹿しいと思わないんだろうか。この事態が何を意味しているのか、考えてみろよ。たかが、保育所がないだけで、新卒で採用してもらった企業に「通えません」ということなんだぜ。それって、学校だったら

  • 停学・留年

と同じ状態なわけでしょう。ようするに、これを解決するためのお金くらい、国家が税金で投入するのが当然なわけでしょう。
ようするに、この国にとって「必要」なサービスは、それを市場原理に任せていても、それほどの収入にならなかったとしても、それは「必要」なんだから、国家が金銭的に保障してでも実現するしかないわけであって、というか、それくらいの

  • 国民的合意

が充分に達成できるわけでしょう。日本の少子化対策が成功してこなかったのは、こういった「自己責任」信者が、自らが信じた「誰にも迷惑をかけずに生きる」といったような、労働倫理を

  • 他人に押しつけた

からなわけで、そんなことをしたら、たんに「日本が滅びる」ということがなぜか、こういった人たちは分かっていなかった。お前が迷惑だというなら、お前が生まれてきたこと自体が迷惑だということになるんだから、他人に迷惑をかける「自由」を認めろ、と主張すればいいんであって、そういった一切を含めて、国家は自らが滅びない「戦略」を勝手に考えさせればいいわけで、そんな責任まで私たち個人が担わせられることの方がどうかしているのだ。
私は上記の引用の指摘は非常に鋭いと思っているわけで、そうやって国家は、結局は「賃金の平等」は実現させられる。じゃあ、後は何が残っているのかといえば、

  • 仕事内容の格差

をどうやって、うめていくのか、なわけであろう。こここそが「本丸」なわけで、この問題にどういったアプローチがあるのか。というか、この問題をなんらかの意味で「解決」しようという野心的な理論って今まであったのかな...。

フリーターにとって「自由」とは何か

フリーターにとって「自由」とは何か