映画「沈黙」と現代の非正規派遣

映画「沈黙」については、遠藤周作の原作を問題にしなければならないのであろうが、その前に、あの映画で描かれた日本のキリスト教徒が井上様の前に、囚われて、連れて行かれる姿はどこか、

  • 現代の派遣社員が、一人いくらで売られて行く

そんな姿に重なって見えてくる。
ここで私がいらだっているのは、つい最近まで、

こそが、現代の問題を解決する「希望」の社会だとか言っていた連中が、いざトランプが「同じ」ことを始めたら、自分が「ゲーテッドコミュニティアメリカ」から「排除」される立場になりうるとなったら、急に、文句を言い始めたというわけで、なんなんだその現金な話は、と思ったわけである。
自分が「排除」されているんじゃないのかと思えてくると「反対」だけど、そうでない間は「賛成」って、それなんなんだろうな。多くの人がずっとそのことを問題にし続けていたのに、そういった「左翼」の地道な活動を馬鹿にして、自分が

だと思い始めたら、急に「問題だ」と言い始めるって。

フリーター的労働者の身体は、セキュリティ型権力に常時さらされ、情報の断片を切り売りされ、多重化された監視の被爆を続けている。
だが立ち止まろう。
「上からの」監視だけではない。多くの人が実感するように、各企業へのうわべの「成果主義」の導入は、労働者同士の相互監視、秘密や噂話など、職場内の情報戦争の苛烈化、上司(雇用主)への隠微な従属と管理化を、いわば草の根レベルでより深刻化した。この流れはより下位の労働者の魂へ押し込められる。たとえば、東京の教育現場へのネオリベラルな評価主義の導入がもたらした状況に関しては、斎藤貴男のルポがある(『教育改革と新自由主義』)。労働市場は、多様な労働者たちの個人情報を工学的にデータベース化する。底辺労働市場を多角的に管理(マネージメント)するのが、各ジャンルの情報やノウハウを自在に使いこなす「シンボルアナリスト」=スペシャリスト集団かも知れない(野宿者や外国人労働者、障害者の雇用と就労機会をめぐる現状の中に、こんなグロテスクな状況は色濃く剥き出しになる)。
見られるのは、上から下位の労働者を押さえつけるタイプの権力だけではない。労働者が自分たちの相互的な情報ネットワークの中で、細かい噂話や陰謀や捏造などを連鎖的に積み重ね、いつの間にか誰かを「排除」している、自然に「管理する側」の思惑通りになっている、そんな光景だ(たとえば急増する個人に対する集団的ストーカー)。
当事者にもよくわからない形で生じる排除。
誰が悪いとか噂話とか陰謀とか、悪意が入り乱れ、判断や認識の基準や定点が何処にあるのか、よくわからなくなっていく。「たまたま」がいくつか重なることで、べつに誰でもよかったのだが「たまたま」その人が致死的なダメージを強いられる。巻き込まれた「被害者」の手も、泥や血で汚れる。悪意や猜疑心や陰謀がグチャグチャに渦巻き、誰が犯人で誰が探偵で、誰が被害者で加害者で、誰が警察で司法なのか、よくわからなくなる。
排除される人は、本当っはありもしない「秘密」(過去の噂や恋愛話?)を捏造され、内面へ押し付けられる。
社会学者のデイヴィッド・ライアンは言う、情報社会=監視社会では、個人の人格や生身の身体は消失する、「記録された行動の総体から抽出されたデータ・イメージ、これこそが重要なのだ」「今日、最も重要な監視手段は、収集されたデータの保存・照合・修正・処理・売買・流通を可能にするコンピュータの機能である」(『監視社会』一三・五〇頁)。
断片的なデータが命取りになる。厄介なのは、情報型の暴力は、全体が虚偽ではなく、大まかな事実と核心部での虚偽・歪曲を、微妙にブレンドした混合体だからだ----捏造した側でさえそれに気付けないかもしれない!
そして、そんな事実 / 虚構のブレンドが明らかだからこそ、情報型暴力は集団内でとめどなく感染する。この空間で排除の対象=「犠牲者」になりやすいのも、派遣労働女性 / 障害者 / 外国人労働者など、社会認知上のスティグマを負わされた人々だろう。そしてこの先で重要なのは、ざんこくな矛盾だとしても、こんな「たまたま」の玉突き的連続=偶然決定の無力を、加害者 / 傍観者 / 被害者があ意味で「共謀」して、草の根的に押しひろげてしまっているというグロテスクさにある。では、この状況になお「否」をつきつけ、抗するための手がかりは何か。
メール・マガジン「派遣のお手前!」で栗田隆子は書く、「末端の労働者であればあるほど、末端同士の些細な違いに敏感になるっていうか、いがみあうっていうか...。「金持ち喧嘩せず」とかいう恐ろしいことわざの意味をかみしめる日々です」。

【君たちは社会の不平等のせいで貧しいのではない、自分で好きこのんでアンダークラスな生活を選んだのだ、不況や失業率の高さは認めるが、正職員で働こうと思えばいくらでも働けるはずだ。
はっきり言う、君たちは経済的にも倫理的にもひと山幾らの匿名の存在だ。「顔」がないのも当然だ。そればかりか、いつでも社会を逸脱し無用な混乱を招く「敵」となりうる。君たちはそのリスクが疑いなくある。君たちは社会の真の多様性や生産性をいたずらに阻害する。
生かしておいてやったのがそもそも間違いだ。都合が悪くなると被害者面するな。単に負け犬なだけだ。日本社会のごみくずを全滅させ、真の実力と能力主義をひらく。相対的な生活と経済の貧困は、間違いなく犯罪やテロルの温床となる。君たちは危険だ。危険は断固事前に摘みとる。犯罪の原因を探るだけでは意味がない。君たちの排斥と抗菌は、正当な手続きを経た上での当然の結果だ。いや、むしろそうしなければならない----悪の証拠(大量破壊兵器? 共謀罪?)なんて見つからないからこそ、そうする......。】

しかし素朴な疑問があり沈殿する。この場合のセキュリティとは、公的な社会保障(social security)でさえなく、相対的な「勝ち組」に属する人々の「安全」でしかないのではないか。

フリーターにとって「自由」とは何か

フリーターにとって「自由」とは何か

そもそも、人間が「危険」とか言い始めたら、だれだって「危険」なんだから、全員を牢屋に入れるしかなくなる。それが嫌なら、常に「監視」して、なにか危険な「兆候」を見せたら、その「監視」状態から、その人間の自由を奪うような「からくり」を作るという話になるわけで、それが上記の「監視社会」というわけであろう。
映画「沈黙」が描いた、日本人のキリスト教徒の社会は、そういった「からくり」がコンピュータではまだ実現できていないから、人間の「監視」でやらなければならない、となっているだけで、基本的には、その「からくり」は同じだと言うしかない。
しかも、ここで描かれたのは、一人一人の日本人のキリスト教徒を、一人の人格のある個人として、尊厳のある存在として扱っているのか、という疑問なのだ。
江戸時代のキリスト教弾圧の政策は、最初はキリスト教徒を捕えて、次々と殺すというのが続いていた。しかし、次第に官僚たちは、そういった政策では、長期的には続かないと考え始める。
なぜなら、彼ら自体が、そういった日本人のキリスト教徒の「信仰」を疑っているからなのだ。なぜ、彼らが信仰を始めたのか。それは、おそらくの最初は彼らが伝えた、なんらかの「医療行為」や「食料政策」などの実生活に関わる「利便性」が彼らに、実益を与えるものとして受け入れ始めたのであろう。つまり、

という表現が、どこか違和感をおぼえる形になっている。それは映画においても繰り返し描かれるわけで、何度もヨーロッパから来た宣教師は、日本人たちの「信仰」がどこか、偶像崇拝的であるなど、違和感を抱いている。
江戸時代の官僚たちは、これは「キリスト教の信仰ではない」と思っていた。つまり、しょせん彼ら「大衆」は回りに影響をされて、変わっただけ、と思っているわけで、だったら、その回りを変えれば、いずれは

  • 普通の存在

に戻ると考えている。つまり、明らかに官僚たちは「虐殺政策」を転換している。たんに、住民を全員根絶やしにすればいいと考えなくなっている。つまり、村人を全員殺さない。見せしめ的に何人かは殺しても、その他は見逃す。
映画の最後の結論もそういった延長で解釈できる。主人公の宣教師は、自らのこういった状況において、「宣教」を続けることの難しさはあっても、その自らの

  • 内面

における「信仰」は、捨てずに晩年を生きる。なぜそれが可能なのかといえば、ようするにそれが江戸幕府の政策だったから、と言うしかない。
表面的な「布教」を禁止はするが、別に、だからといって内面を禁止しない。だとするなら、日本人のキリスト教徒たちも、外面的な「信徒」の

  • 印(しるし)

を消せば、彼らは殺されることがないのだから、何世代に渡って、その「信仰」を続けることは可能であったし、事実そういった痕跡が残されているわけであるが、大事なポイントは、江戸時代の官僚の「政策」が、ある時点から変わったために、そういった部分に、あまり注力しなくなった、というところにある。
例えば、戦前の日本の官憲が、日本共産党に対して行った、弾圧。獄中非転向にも、同じような印象を受ける。日本の官僚は最初は、大杉栄などのアナーキストを虐殺するわけだが、次第にそのことを「反省」し始める。
彼らは、たんに「国民」を虐殺し続けることが、「解決」ではない、と考え始める。なぜなら、そんなことを続けたら、土地に人がいなくなってしまうし、国力が衰えるから。
彼らは、そうではなく、彼らの「信仰」が、その時々の「気まぐれ」のようなものだと考え始める。つまり、ちょっとした行き違いのようなもので、

  • 本質

においては、他の人となにも変わらない、「土着の日本人」と受けとるようになる。だから、彼らは「環境」を変えたり、「構造」を変えれば、自然とそういった「信仰」も失くなっていく、と考えた。つまり、彼らは、そういった「大衆」の「信仰」を

  • 信じない

という政策に転換していくわけである。
例えば、現代の日本の自称「知識人」で、そういった「左翼」を罵倒する連中が多く見うけられるわけだが、彼らは、そもそも戦中の彼らの獄中非転向の運動が、そういった

と同列のものとして、受けとっていないわけである。私はそういう意味で、日本の「左翼嫌い」の自称「知識人」を疑っている。彼らの本質は、民衆を弾圧し続けた江戸時代の官僚たちと変わらないわけだ...。