福沢諭吉三段階論

私が気になっているのは、月脚達彦の『福沢諭吉の朝鮮』の「序章 福沢諭吉の朝鮮論をどう読むか」の内容について、どう考えたらいいのか、ということなんだが、この部分を丁寧に読むと、ようするに著者は福沢諭吉の朝鮮政策は

  • 三段階

に分けられる、と言っているようである。つまり、

  1. リベラル段階
  2. 韓国パターナリズム段階
  3. 欧米植民地段階

だと。

  • リベラル段階:

果して、初期・中期の福沢を「リベラル」と呼べるのかは怪しいがw、いずれにしろ最初の頃は、ここまで露骨に朝鮮人をボロクソに言っていない。つまり、

  • なにかの理由

によって、福沢は「態度変更」をしたわけである。

始めて朝鮮人と出会った一八八〇年の年末から、福沢は『時事小言』の執筆に取りかかる。この著作は福沢がある意味で転向を宣言したものだった。

福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」 (講談社選書メチエ)

福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」 (講談社選書メチエ)

ここで「転向」と言っているところがポイントだ。それ以前の福沢は言わば、「人権やフェア」といったものの範囲で考えていた。しかし、ここから、ある種の「暴力」は正当化しうる、といった議論に転換していく。では、どういう意味で「暴力」は正当化されるのか、ということになる。

福沢は同書の第一編「内安外競之事」の冒頭で、「天然の自由民権」論は「正道」であるが、しかし「近年各国にて次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多」いという無益で愚かな軍備拡張が横行する状況では、敢えて「人為の国権論」という「権道」に与しなければならないとして、次のように宣言する。

他人愚を働けば我も亦愚を以て之に応ぜざるを得ず。他人暴なれば我亦暴なり。他人権謀術数を用れば我亦これを用ゆ。愚なり暴なり又権謀術数なり、力を尽して之を行ひ、複た正論を顧るに遑あらず。蓋し編首に云える人為の国権論は権道なりとは是の謂にして、我輩は権道に従ふ者なり。(5一〇八 - 一〇九)

西洋諸国がこぞって国権拡張競争という「権道」に向かっている状況において、日本のみが自由とか平等とかいう「正道」を唱えていては国の独立が危ぶまれるというのである。
福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」 (講談社選書メチエ)

これが、福沢の「転向」である。福沢は、基本的に一切の

  • 野蛮

を是認する。それをここでは、「相手」に理由させているが、相手が実際にどうだと思うかは主観であろう。ということは、基本的に「どんな場合」も、

  • 野蛮

でいい、と福沢は言っている。どうして福沢は「リベラル」の立場を維持できなかったのだろうか? 私のこういった疑問は「ナイーブ」だろうか? 大事なポイントは、なぜ福沢は「このタイミング」で、こんなことを言い始めたのか、にある。
おそらく、こういうことになるであろう。
福沢は若い頃は、そこまで政府の要職の連中と懇意ではなかった。だから、「学者」として思っていることを、たんに書いていた。ところが、ある時期から、彼は、さまざまな政府の要職に就いている人と親しくなるに従い、さまざまな

  • 政府中央が考えている政策

をいち早く知るようになる。そして、そんな中に、中国侵略や朝鮮占領といった「陰謀」の情報を得るようになったのであろう。そこで、福沢はパブリックな場でも、そういった

  • 御用学者

的な「要望」に、応答していかなければならなくなっていった。そして、その最先端にあったのが「朝鮮」であった。
福沢は考えた。日本の中央には、朝鮮を「侵略」したいと考えている連中がいる。彼らの「言ってほしい」ことを自分が言うとするなら、どういったことを言えばいいのか?
そこで、福沢はある「自らの持論」を思い付く。つまり、「国家の独立自尊」である。聞けば、朝鮮は中国の「属国」だと言う。だとするなら、そんな国は国の体裁をなしていない。国家とは

  • 独立

していなければ、国家ではないのだから、朝鮮は国家ではない。

福沢は同じ『時事小言』の第四編「国権之事」で、日本の独立と近隣諸国との関係について次のように譬えている。

仮令ひ我一家を石室にするも、近隣合壁に木造板屋の粗なるものであるときは、決して安心す可らず。故に火災の防禦を堅固にせんと欲すれば、我家を防ぐに兼て又近隣の為に其予防を設け、万一の時に応援するは勿論、無事の日に其主人に談じて我家に等しき石室を造らしむること緊要なり。或は時宜に由り強て之を造らしむるも可なり。又或は事情切迫に及ぶときは、無遠慮に其地面を横領して、我手を以て新築するも可なり。蓋し真実隣家を愛するに非ず。又悪むに非ず、唯自家の類焼を恐るればなり。(5一八六 - 一八七)

自分の家を石造りにしても、隣家が粗末な木造板屋であるならば「類焼」の恐れがあるため、無事のうちに隣家の主人と相談して石造りにさせるべきであるが、危険が迫ればその土地を無理やり奪って自分の手で石造りにしても構わないという、一見不穏当な文章である。しかし、これはあくまでも譬えである。日本と近隣諸国について福沢が実際に語ったのは、それに続く文章だった。

今西洋の諸国が威勢を以て東洋に迫る其有様は火の蔓延するものに異ならず。然るに東洋諸国殊に我近隣なる支那朝鮮等の遅鈍にして其勢に当ること能はざるは、木造板屋の火に堪へざれるものに等し。故に我日本の武力を以て之に応援するは、単に他の為に非ずして自から為にするものと知る可し。武以て之を保護し、文以て之を誘導し、速に我例に倣いて近時の文明に入らしめざる可からず。或は止むを得ざるの場合においては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。(5一八七)

福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」 (講談社選書メチエ)

ようするに、この本の著者が何を言いたいのかなのであるが、上記の福沢の発言の引用の

  • 応援

という言葉に注目して、福沢は「日本と中国と韓国」が協力して、欧米列強を追い返そう、と言っていると解釈した、というわけなのである。つまり、

だと言うわけだ。
うーん。
そうだろうか? というのは、正直に考えて、「いざとなったら武力で脅してOK」と言っている人を

  • あなたのためだから

と思うか? つまり、ここで福沢が言っていることは、

  • 私(=福沢)が提案している政策は一見すると、朝鮮への「無償の贈与」に見えるかもしれないが、そうではない。あくまでも、日本が「得」になる範囲で行うのであって、つまりは、隙あらば、朝鮮を日本のものにする選択肢を選ぶことは当然なんだ

といった感じの発言にしか、私には読めないのだがw
ようするに、私が何を言いたいのかなのだが、ここで福沢が議論している問題は、現代においては、「内政干渉」問題だと言えるであろう。
福沢の比喩の方に注目するなら、隣りあっている家と家が、相手の家のゴミ屋敷的状態が火事の起きやすさを招き、被害を大きくする蓋然性を指摘することは、近代法においては

の範囲の問題であって、それなりの「対処」が行政機関に訴えるなどして、行える可能性がある。
では、国家間の場合はどうなのか、というわけである。
当時の、欧米列強が世界中で植民地を拡張していた段階において、そういった「内政干渉」の国際法も発達していない。
しかも、朝鮮半島はあまりにも日本に近く、こんな近くで欧米列強の植民地ができたら、オセロのゲームのように、日本も簡単にひっくり返されるだろう、というわけである。
しかし、である。
よく考えてみると、この議論は奇妙なのだ。なぜなら、もしもこれが「問題」なら、なぜもっと早くからこれが問題として提起されていないのか、というところにある。
なぜ、福沢は急にこんなことを言い始めたのか。なぜなら、そういった「野望」を政府の中央が、さまざまに検討し始めたから、としか言いようがないわけであろう。
よく考えてみてほしい。
もしも類焼を避けたいなら、「侵略」して、朝鮮半島と中国を日本の国土にするしかないのではないか。なぜなら、どうして朝鮮の人や中国の人が「国力」をつけたら日本に侵略してこないと言えるのだろうか? ようするに、福沢はある欺瞞的なレトリックを使っている。問題は、朝鮮半島が欧米列強の植民地になるかならないかではない。日本が

  • 暴力

にさらされる可能性を恐れているのであって、その可能性がある限り、日本は一時として休まるときはない。日本が朝鮮に介入するのは、朝鮮を「応援」しているのではなく、それによって

  • 応援した日本の勢力の意のままに操られる「政権」を朝鮮半島に作る

ことに主眼がある。つまり、そう「だから」、福沢は「安心」できるのだ(このことが、なぜ福沢が朝鮮半島にあそこまでいれこみながら、中国に対しては比較的、無関心だったのかを説明する)。
そして福沢は、時をはさみ、三度目の「転向」をする。

さて、一八八〇年に福沢が「アジア主義」的な発言を始めたことを確認したうえで、『時事新報』一八八五年三月一六日社説「脱亜論」の全文を検討しよう。
福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」 (講談社選書メチエ)

以下、後半部分である。

輔車唇歯とは隣国相助くるの喩なれども、今の支那朝鮮は我日本国のために一毫の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するが為に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの価を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の国かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦陰陽五行の国かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がたあめに掩はれ、朝鮮人に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるるが如き、是等の事例を計れば枚挙に遑あらず。之を喩へば比隣軒を並べたる一村一町内の者ど共が、愚にして無法にして然かも残酷無情なるときは、稀に其町村内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜に掩はれて湮没するものに異ならず。其影響の事実に現はれて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云ふ可し。左れば今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。(10二四〇)

福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」 (講談社選書メチエ)

まあ、ようするに、欧米列強と同じように、日本も中国や朝鮮を植民地化しよう、というわけであって、

  • 欧米植民地段階:

というわけである。しかしね。最初の引用にあるように、自ら「愚」であり「暴」であり「権謀術数」を自認しておいて、今さら、なにが「西洋の人に野蛮人と勘違いされる」だw いい加減にしろよ。その西洋人が、

  • 植民地

にしようとやってくるから、問題だって話をしていたはずなのに、なんで「彼らに野蛮人だと思われたら困る」だ。お前は、西洋人が「植民地」にしようとしていることが

  • 野蛮

だと言っていたんじゃないのか(私には支離滅裂なことを言っているようにしか聞こえないw)。
うーん。
これのどこが「すぐれて状況的」なんでしたっけ?