うーん。以前紹介した、月脚達彦『福沢諭吉の朝鮮』という本が気になっていて、というのは、この本は福沢の朝鮮に対する態度は、いろいろあるのだろうが、
- おおむね「時代的」に評価できる
と言っているように聞こえるからなわけだが。
社説「脱亜論」の前後の状況に少し目を向けるだけでも、それは一部で誤解されているような、近代日本のアジアに対する単純な侵略論ではなく、一八八〇年の朝鮮人との出会いののち、近代国際秩序のもとで新たな日本と朝鮮との関係を模索する過程で表明された、すぐれて状況的な発言だったと解釈することができよう。
福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」 (講談社選書メチエ)
- 作者: 月脚達彦
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/10/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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すでに見てきたように、福沢が朝鮮について発言を始めたのは、福沢のなかで一方的に朝鮮に対する関心が生じたからではなく、朝鮮からの密航者や留学生に接して「同情相憐むの念」という義侠心が生じたからであった。かつて橋川文三は、福沢の朝鮮への対し方には、中国へのそれとは異なり「パセティクな情味にあふれるものが感じられる」と述べたが、これは福沢がその時々の状況のもとで朝鮮人と現実の接触を持っていたからである。
福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」 (講談社選書メチエ)
上記の引用を見て、いわゆる「左翼」の人たちにしてみれば、ここでわざわざ
- すぐれて状況的
という表現が使われていることに、大きな違和感を覚えるのではないか? ここで、掲題の著者が言う「すぐれて」という
- 評価
を表す言葉は、どういった文脈で言われているのか? なぜそれが「すぐれて」いるのか? 「すぐれて」いる、とは一体何がどう「すぐれて」いるのか? 私はどうも、こういった
- 文系
の人たちの「呪文」のような言葉がよく分からないのだw
ただ、上記の二つ目の引用はとても興味深い分析となっている。リチャード・ローティが自らの「リベラル革命」において、その中心的な位置に
- 共感=同情
を置いたことは有名である。しかし、大事なポイントは「同情」をベースにした「連帯」は
- 義侠心
という「パターナリズム」を必然とする。つまり、
- 強者による弱者への「パターナリズム」
となる。福沢は「日本」という強者が、「韓国」という弱者を「文明化してやる」と言っているわけである。韓国が「かわいそう」だから、韓国を「支配」してやる(変えてやる)と言っているわけで、福沢に言わせれば、
- 日本によって変えられた韓国(=占領され、骨の髄まで<日本化>された韓国)
が「文明」だと言っているにすぎない。リチャード・ローティがイラク戦争を「次善の策」として、プラグマティックに「肯定」していくように、そもそもリベラルは「帝国主義的」なのであり、侵略戦争的な野望を内包している。リベラルは、
- セキュリティ
という「彼らの価値観で評価できない」ものに対しては、平伏する。むしろ、ゲーテッド・コミュニティや棲み分け理論を「肯定」するのは、自らの「リベラル・ユートピア」を守るためには、あらゆる「暴力」をふるうことをためらわないリベラリストだということになる。彼らの「理想」は、そもそも彼らの「理想」を共有する人たち同士にしか与えられないのであって。そのフレームを脅かすものたちと彼らは
- 会話の窓口
を(あまりにも優等生すぎて)もちえないのだ(彼らは、あまりにも頭が良すぎて、自分と同じような「成績」の人たち同士でしか、「共感」できないw)。
例えば、福沢の閔妃暗殺についての言及は以下になる。
そればかりか福沢は、このおぞましい凶悪事件を、どこででも起こりうるありきたりの事件とみなして無視しようとする姿勢を見せはじめ、ついにこれを「一時の遊戯......野外の遊興、無益の殺生として見るべきのみ」(!)、とまでえ主張したのである(15三三二 ~ 三)。仮に日本の皇后が外国人に暗殺されたら、福沢はかなる意味においても、それを許すことはなかったであろう。そればかりか相手国への宣戦布告をただちに要求しただろう。だが、朝鮮の皇后は福沢にとってただの昆虫であり、その殺害もわらって放置すべき子どもの遊びとおなじ類なのである。朝鮮および朝鮮人に対する福沢の深いさげすみの眼は第二章一で論じたが、ここでその態度はきわまる。私はこれは福沢が書きのこした文章のうち最悪のものだと断言する。
- 作者: 杉田聡
- 出版社/メーカー: 花伝社
- 発売日: 2016/12/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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私は別に、福沢の発言にそれなりの、状況的な振幅があることが重要ではない、と言っているわけではなくて、一般の人たちが福沢の全発言に目を通せないことをいいことに、さまざまな福沢の問題点を、まるで
- 無視できるくらいに「小さいこと」
であるかのように、「隠蔽」するかのような態度がうさんくさい、と言っているわけである。つまり、それなりにページを割いて書けるんだから、それなりにフェアにバランスよく評価すればいいだけなわけであろう。なんなんだろう。福沢諭吉が慶応大学の創始者であり、そういう慶応学閥にとっては、彼に唾するような態度はできないみたいな
- 御用学者
的ななにかなのだろうか?