岡本隆司『中国の論理』

トランプ大統領が、移民に対する規制や排除の政策を行って、まずイランが反発をしたわけだが、イランというのは「歴史」のある国である。そういった国の特徴は、国民が自国の文化に誇りをもっている、ということになるであろう。
それは中国も同じで、彼らには彼らの独特の「文字文化」があり、それを前提に秩序感覚ができているし、社会の安定がそれを前提にしている。
ところが、そういった部分に対して、福沢諭吉なんかは非常に単純な理屈で、

  • 全否定

してしまう。彼に言わせれば、非常に単純なルールで西洋の書物を「翻訳」していき、そういった「成果」と比較して、中国を批判するわけなんだけれど、そういう意味では、福沢がやったようなことを中国がいずれ「理解」して「評価」する日がたとえ来るとしても、今そういうわけにいかないことをもって

  • 愚民

だとかなんとか言いたがる(宮台真司のような)連中は、百害あって一利なし、というわけである。
そのことは、太平洋戦争において、中国の反日ゲリラ闘争に対して、ついに日本は有効な手段をとれなかった。中国を

  • 支配

することができなかったことを反省すべき、ということになるのであろう。
つまり、福沢の「幻滅」は私には、しごく当然のように思われるわけである。
福沢が自分の言う通りに、中国や韓国が動いてくれないといって、こんな野蛮な遅れた民族は、西欧の植民地政策と同様に彼らの国を扱っていいんだ、というのは、トランプがイランを「野蛮」と言っているのと変わらない。たとえどんなにトランプにはイランが野蛮に見えたとしても、彼らイランの人たちは誇り高く自国の文化を評価しているのであって、まずは、そのことが何を意味しているのかを理解しないことには始まらないわけである。
ようするに、なぜ私が福沢を評価しないのかと言うなら、福沢には中国を「理解」しようという考えがない。あくまで、欧米の「暴力装置」で中国を「脅す」ことにしか興味がない。
よく考えてみてほしい。結局日本は、何十年も中国と戦争をしたにも関わらず、結局は中国を「支配」できなかった。ずっと、中国の農民レベルのレジスタンスが絶えなかった。それは、そもそも日本側が中国を

  • 理解

しようという姿勢がなかったからではないのか? もっとうまくやって、中国の大衆レベルの「支持」を日本に向かわせるような、そういった「福祉」政策が可能だったのではないのか?
福沢が中国を「理解しようとしなかった」のは、西洋の文物を取り入れようとしない中国を「愚民」だと即断したからだが、大事なポイントは中国の人たちが本当は愚民なのかどうなのかではなくて、日本にとって中国が

  • 望ましい方向

に変わってほしい、というところにあったわけであろう。日本は福沢を始め、たんにヒステリーを起こして、中国からの「反応」に反発しているだけで、中国自体を「変え」ることに興味をもたない。中国を理解しようとしないのだ。

「礼」とは儒教の教理を実践するパフォーマンスであり、それを身につけたエリートは、品行方正、秩序に違うことはありえない。万一違えば、自裁すべきものとされた。だから刑罰を及ぼす可能性もなければ、必要もない。逆に非エリートは「礼」を知らない人々、したがって秩序の埒外に逸脱し、世を乱す恐れがあるから、刑罰で律さなくてはならぬ。

例えば、東京大学を考えてみてほしい。日本の東大出身の先生たちは、やたらと「偉そう」であるが、この「からくり」がまったくの、中国の科挙

  • コピペ

であることが分かるであろうw しかも困ったことに、東大は儒教のような「道徳」を涵養するような要素もないから、ひたすら答案用紙を丸暗記を必要もないのに日々続けている、暗記ロボットみたいな奴ばかりになる。

庶民は自分が独立した財産をもっていれば、租税はもちろん、徭役もまぬかれない。そんな負担を少しでも回避するために、その家族・財産もろとも士大夫のもとに身を寄せ、特権のおこぼれにあずかろうとした。その財産を士大夫に寄進し、自身もその使用人になれば、「士」の特権で、負担が軽減される。そればかりか、士大夫の威を借りて有利な地歩を占め、自分と同じ庶民を見下すことも、可能ではない。
個々の庶民は内心、士大夫をバカにしていたであろう。たんに知識があるだけで、経書をたくさん覚えたからといって、実際に道徳を有しているはずはない。儒教の建前である。かれらが聖賢の道を説きながら、庶民を搾取、酷使してやまないことは、自身が被害を受けるだけに、いちばんよく知っていた。
それでも、そうした建前で秩序が保たれ、士大夫の社会的な優遇が決まってしまう以上、「庶」はどれだけバカにしていようと、士大夫たちを「士」として利用せざるをえない。

ようするに、これが「新自由主義」なんだよね。「新自由主義」とは、お金持ちがどんどんお金持ちになって、貧乏人がどんどん貧乏人になった成れの果ての世界なんだよね。そこでは、極端なまでに貧富の格差が生まれて、ほんとうにごくごく何人かの

  • エリート

だけが、社会的な特権を享受していて、当然、そういったエリートになるのは「お金持ち」の中からしかいない。
なぜ、中国が帝国日本軍を追い返せなかったのかは、「エリート」と「大衆」が中国においては、あまりにも「分断」していたからであって、逆になぜ帝国日本軍が中国を支配できなかったのかは、中国の「大衆」が最後まで、日本を「歓迎」しなかったから、なわけであろう。
極端な資本主義社会は必ず、お金持ちのお金の「極大化」と貧乏人のお金の「極小化」をもたらす。だから、大衆はエリートに逆らわない。大衆はなけなしの財産を守るために、エリートに

  • わいろ

を行う。つまり、資本主義社会は必然的に「わいろ」社会になる。しかし、ある意味、こういった社会は「安定」する。なぜなら、大衆は一種の「奴隷」状態に起かれるわけで、最初から「ジリ貧」なんだから、

  • 貧しいのを耐えて、ずっと貧しいままでいるか?
  • エリートに「わいろ」を渡して、ちょっとだけいい夢を見るか?

の二択しかなくなるのだから、社会が「縮小均衡」するわけである。
こういった社会の最大の弱点は、徹底して社会の活力がなくなるところにある。徹底して庶民はエリートに

  • 非協力的

である。まったくもって、大衆はエリートを助けたいと思わない。つまり、軍隊が弱いわけだ。
福沢諭吉は、朝鮮や中国が西洋のテクノロジーを受容すれば、すぐにでも日本と肩を並べるような、軍事大国になると思っていた。ところが、そうはまったくならなかった。なぜなら、死ぬまで、これらの国は国内において

  • エリート
  • 大衆

仁義なき戦いをしていたから。この二つの層は、死ぬまで、まったく分かり合わなかった。お互いがまさに「内戦」状態であって、同じ国民として一緒にこの国を支えて行こうなど、死んでも思わないわけである。
しかし、逆に言えば、「だからこそ」こんなに巨大な国を、中央政府は比較的、労力をかけることもなく「支配」できたわけであろう。
福沢は、この二つの相反する「パラドックス」であり、方程式を解くことなく、彼らを愚民とののしって、

  • 日本流

を押し付ければ、なんとかなると考えただけであって、そして勝手にその無理ゲーに挫折しただけであって、もしも正道を行くなら、どうやって彼らに日本的な「欧米翻訳」文化を普及させるのかとか、エリートと大衆の、ほとんど何千年にもわたる

  • 内戦状態

から開放させてやるのかとか、そういった、まさに今の中国が行っているような「民主化」の問題にとりくまなければならなかったはずであるのに、それはおそらく、彼の手には余る問題であった。なぜなら、彼には、最初から最後まで、中国がどういう国なのか知らなかったし、知りたいと思ったこともないのだから...。