伊藤祐靖『国のために死ねるか』

例えば、日本の東大は明らかに、中国の科挙を「モデル」に作られている。だから、東大の関係者にはどこか「大衆」への「侮蔑」をもはや、「本能」に近いレベルで行っているような印象を受けることが往々にしてある。
彼ら「インテリ」が「楽しい」と言っているときは、だいたい、そういった「衒学」を理解できない大衆の

  • 愚か

な振る舞いを見て、それを理解できている自分の「優秀」さと比べて、相手を「差別」することが「楽しい」と言っているわけで、そういう意味では、ニーチェの言う「貴族」に近い。
他人を馬鹿にする「愉悦」は、むしろ、高学歴の

  • ガキ(これは、年齢の高い低いに関係ない)

の方が、まさにピュアであるだけに、純粋に「楽しんでいる」わけである。戦前から戦後にかけて、明らかに一つだけ変わったことは、学校教育に道徳がなくなったことだと思っている。もちろん、そのことのよしあしはあるのだろうが、大事なポイントは、その

  • 当事者

である子どもたちにとっては、自分に与えられる「条件」が全てなのだから、非常に純粋に

  • 非道徳的であることを「楽しむ」

ように慣習付けられていく、ということなのだ。つまり、非道徳的な振る舞いを公的な場で行うことを、だれも「怒れない」ということなのだ(なぜなら、そういった「ルール」がないのだから)。子どもは「適応」する、自らの「環境」に。彼らは「非道徳的」であることを、功利的な意味で「適応」するのだ。
もちろん、今の中国には科挙はない。あの中国にさえ、科挙はないのに、日本はその科挙の真似ごとのような、どうでもいい

  • 文系暗記

を必死で繰り返した「口ぱくマシーン」をありがたがって、最高学府に迎えているんだから、なにをか言わんや、であろう(なにかの「病気」でやたら記憶力ばかりいい人が「合格」するんだったら、AIに授業を受けさせておけばいいわけで)。こんな制度はさっさと止めしまえと私なら、なんの考えもなく言うわけであるが、そう言うとどこからか、そのことを「恐しい」と「不安」になる人がいるようで、やっかいだな、と思わなくもない。
道徳を教えないことが、戦後教育の特徴だとするなら、戦後教育にはある特徴がある、ということを意味している。それはまず、道徳を

  • 軽蔑

することを教えている、ということに反語的になっている、ということである。それは、明治維新によって、彼らが教育の場で、江戸時代を軽蔑して「教えた」ことと似ているだろう。もしもそれが教えられないとするなら、それには価値がない、ということを暗に示唆しているわけで。もう一つは今度は、「内容」的な話になって、つまりは、道徳を教えないというのは

  • 真剣に生きない

ということを意味しているわけである。道徳を教えないということは、道徳とは「生きる意味」のことなのだから、それを考えないということは、

  • 本気で考えない

というわけなのだ。私が上記で東大を馬鹿にしたのはそういう意味で、彼らはなぜそれを「暗記」するのかを考えない。それを暗記することにどんな価値があるのかを考えない。とにかく「考えない」から暗記している暇があるのだ。東大生は

  • なぜそうするのか

を考えてはならない。そんな暇がないから。ひたすら、暗記をするための時間が「もったいない」から考えない。戦後日本は、こんな人間ばかりになってしまった。考えないで「暗記」していると、「ご褒美」がもらえるのだ。高学歴というw うまく、餌付けされているものであるw
なんで日本の教育はこんな「餌付け」をさせているのだろう? おそらく、なにかに「真剣」に国民に直面させることを恐れている「真実」があるのだ。だから、なんとかして国民にそれに直面させないようにしている。話をそらそうとしている。明治以降、この国は、国民と本気で真剣に向きあったことなど、一度もないのだ(そりゃあ、テロリストが江戸幕府という国家を転覆して作った国だからね)。

「よかった。日本の人に聞いてみたかったことがあるのよ。この辺の年寄りはね、みんな心配しているんですよ。日本人が怒り出すんじゃないかと思って、心配しているんです」
流暢な日本語なのに、言っている意味がさっぱりわからなかった。
「怒り出す? 何で日本人が怒り出すんですか? 何に怒るんでしょうか?」
「怒ってないのね。それは、よかった。心配だったんです」
「心配? 何で心配なんですか?」
「あなた、パハンって知ってる?」
彼女は、私の質問には答えず、話を続けた。そして漢字で「八幡」と書いた。
「これは、ヤハタやヤワタ、ハチマンと読むんです、地名ですよ」
「違うのよ。パハン。じゃあ、カイラギって知ってる?」
「カイラギ? 知りません」
また、彼女は漢字を書いた。「海乱鬼」。
「何でしょう、判りません」
「これはね、二つとも日本人のことです。昔は、日本人が手こぎ舟でここに貿易に来ていました、この辺りには悪い人が多いから、その日本人を騙すんです。警察官も一緒になって騙して、全部取り上げてしまうのです。その日本人は、お金も品物も取り上げられてしょんぼり、帰って行く。でも、翌年、同じ人が貿易に来るんだそうです。そしてまた、みんなで騙して取り上げてしまうと、帰って行く。その翌年にも来るので、同じように騙す。そうすると、騙された日本人は着ていた服を脱いで、ふんどしに日本刀を差しただけの格好になって、漕いで帰るはずの自分の舟に火をつけたと聞きます。舟が燃え尽きるまで、じっと舟を見ていて、舟が燃え尽きると、突然日本刀を抜いて、さやを海に投げ捨て、殺戮を始めるそうです。自分を騙した人だろうが、関係ない人だろうが、区別なく日本刀で殺していく、何十人も殺して、気が済んだのか、最後はその日本刀で自分のお腹を切って自害する。だから、日本人を騙すのは簡単だけど、何度も騙していると、突然気がおかしくなって殺戮を始める、と言われています。この辺の年寄りが今、心配してるのは、そろそろ日本が怒り出すんじゃないか、ということです」
「そうなんですか、そういう話があるんですか。でも、無差別の殺戮をするほど怒っていませんよ。それとも、私が知らないほど、日本人は騙され続けているのですか?」
「そんなことは、ないですけど......」
不可解な終わり方をした会話だったが、パハン、カイラギの話は、ありがちなことだとは思った。

私にはインテリの「軽さ」というのは、ようするに、真剣に生きている「大衆」を馬鹿にすることを「楽しんでいる」ことを意味するわけだけど、上記の引用の日本人を騙して「遊んでいる」外国の村の人たちと同列に思えてしょうがないわけです。彼らは、あまりにも日常的に「差別」をしているから、相手がそうやって意志表示をしたとき

  • 頭が狂った

としか思えない。つまり、彼らには「馬鹿にする」か「頭が狂う」の二種類しか、人間の分類がないのだ。おそらく、インテリにとって、大衆を「馬鹿にする」のは、たまらなく、なんとも言えない「愉楽」があるのであろう。馬鹿を馬鹿と言うのだからw しかし、そうなのか。人間には誇るべき尊厳というものがあるのではないのか。
真剣に生きている人を、インテリがどうでもいい「知識」だとか「思想」だとか「哲学」だとかをひけらかして馬鹿にしているのを見ると、ヘドが出る。本気で吐き気がしてくる。こういった他者へのリスペクトへの倫理を、柄谷行人は「他者」と言ったんじゃないのか...。