なぜアニメ「セイレン」はおもしろくないのか?

今期のアニメで「セイレン」というのがあるが、とにかく「おもしろくない」。まあ、あまりそういった表現をすると物騒なのだが、例えば、アニメ「けものフレンズ」が見ても実際、おもしろいし、ネット世論の話題になり具合を考えても、この

  • 落差

ってなんなんだろうな、とは思ってしまう。
そこで一つ気付いたのは、アニメ「セイレン」がちょうど、主人公が高校3年生で

  • 進学

に関係したストーリーになっていることが関係しているように思ったわけである。
つまり、なぜ「けものフレンズ」がおもしろく、「セイレン」がおもしろくないかというと、「セイレン」はある種の

  • リアリティ

を描こうとしたから、ということになる。「けものフレンズ」に登場する「フレンズ」たちは基本的に、「大人」であり、独立自尊している。実際に「子ども」がこの世界にはいない。いや。大人「だから」子どもの

  • キャラ化

していると言ってもいい。他方、「セイレン」は現実に彼らは「法的」な意味において「子ども」であるが、高校を卒業するという契機によって「大人」として扱われる、その「狭間」において、実質的には「大人」として視聴者からは見られてしまう。視聴者は彼らを「大人」として見たいのに、実際は、高校生という「子ども」だから、そのギャップに、視聴者はいらだちを覚えてしまう。
そう考えてみると、この「セイレン」というアニメは、少しおもしろく思えてくる部分がでてくる。
つまり、これは、ある種の「リアル」なのだ。
主人公の高校三年の純朴そうな「少年」は、3人の同じ高校に通う少女と、恋愛関係になる、三つのパラレルワールドを描いているわけだが、それぞれにある種の「リアル」がある。つまり、「現実の少女」が実際には何を毎日考えているのか。なにに悩んでいるのか。どんな将来設計を描いているのか。そういった中で、なぜこういったニュートラルな主人公が、そういった「少女」に要求されるのか。
当たり前だが、女子高生の一人一人にだって「人生」がある。みんな、なにかを考えて生きている。それに対して、なにかを

  • イノセント

に「妄想」を投影しようとする「おたく」たちが、そういった現実の人間の「リアル」を忌避するのは、一種の社会の「ホモソーシャル化」を意味しているのかもしれない。男たちは実際の男たちが「理想」とする「キャラ」に

  • 欲情

するのであって、つまりそれは、「男が描く女」に欲情しているにすぎなく、つまりは「男」に(共感という)欲情をしているわけで、一種のホモソーシャルなのだ。そもそも、リベラルは「共感」に関係しているのであって、だとするなら、男は「同じ」男に自分に似ているという理由でより

  • 共感

する。リチャード・ローティ的な「リベラル」は、そういう意味で、よりホモソーシャル的になっていく。社会のリベラル化は、現実の女は男にとって、「他者」であることが隠蔽されていくわけだ...。