巧言令色鮮矣仁

言葉って難しいもので、というのは、言葉は最初から言葉だから、いくらでも「操作」的な捏造が入り込んでしまうんですよね。
つまり、「操作」がされてしまう。
そしてそれは、偏差値の高い、受験クイズゲームをあまりに真剣にやりすぎた人ほど、この病気にかかる。安冨歩先生が3・11の福島第一原発事故での御用学者たちの態度を称して「東大話法」と言ったのはそのことで、彼の本にも書いてあるが、東大では教授が学生に「君はなんの立場なのか」と聞かれるという「作法」があるというのだから、生徒が「東大話法」に秀でていくのは、ある意味、当然だとも言えるわけだw
おもしろかったのは、その安冨歩先生が videonews.com に出演して、その東大話法について話したとき、対談相手の宮台先生の話していることについて「私も彼が何を言っているのか分からなかった」みたいなことを言っていて、まあ。宮台真司先生や東浩紀先生ほど典型的な東大話法はないよな、とは思ってしまったのだがw
まあ、その「話法」が実際になんなのかみたいな話はどうでもいいわけで、ようするに「御用学者」的な人たちは奇妙な理屈をこねまわす、ということをこのことは示唆しているわけで、もともと無理なことを言おうとしているのだから、それに気付かれないようにするために、無理のあるレトリックに頼っている、ということなのだと思う。
だから、彼らが異様に秀でているのは、「ファクト」ではなく、「レトリック」なのだ、という印象を受ける。まあ、理系じゃなくて文系なんだよね。言い方ばかり、こねくりまわしていて、あまり実証的な仕事をされている印象がない(まあ、それをプロレスと呼ぶかどうかは、呼ばれた側もプロレス文化に詳しくないと、なにを言っているのか分からないという面もあるだろうから、微妙なのかもしれませんがw)。
結局そこにあるのは、簡単に言うと「霞が関文学」ということになる。官僚の作文が典型で、どうやって自分に責任が及ばないように文章をこねくりまわすかに、ものすごいリソースをさいていて、どんなに膨大に文章を書いても、そのあらゆる箇所で、

  • だれだれはこう言っています
  • それに対して、ある人はこう言っています

みないな文章ばかりなんだよね。つまり、直接対象に向かい合わない。ずーっと、この調子で進むから、なんか、ものすごく膨大な「ゴミ屑」を生み出し続けているだけのような印象になってくるんだよね。まあ、その指摘もあながち間違っていないと思うけど。
まあそれが、いわゆる、東大の表象文化論なるものの印象なんだけど、だって、最初から自分のやることは「表象」って、あんたバカ? ってなものじゃないですか。なにかしら、世界的に共通した現象を説明するために、モデルという抽象化がされるのであって、最初から、問題そのものに向き合わないって、ありえないわけでしょう。
こういった態度って、マーケティングが近いのかもしれない。
あるものを売るっていうときに、その「戦略」を用意するっていうのがマーケティングで、これに真っ向から反対した思想を示してきたのが、日本の

  • 商人道

ですよね。商人には商人の仁義があるんだっというものだったわけで、それがいや「戦略=マーケティング」ですって、それ、最初から

  • 人間なんて、いかに口先で騙して、旨い汁を吸った奴が勝ち組なんだ

ってわけでしょう。
ようするに、宮台真司先生にしても、東浩紀先生にしても、いろんなことを話すんだけど、結局のところ、そう話すことで、相手を「操作」しているんだよね。そしてそれを彼らは、

と言った。まあ、マーケティング的手法なわけで、そして、彼らはそれを肯定した。まさに、彼らが資本主義を肯定するように。だから、彼らは今も、マシンガンのように話し続けているわけだけど、それを聞いている方としては、また彼らは、誰をどうやって口先で操作してやろうとしているのかな、としか話を聞かれなくなっているんだよね。
彼らの「振る舞い」は全て、なんとかして周りの連中を、「ある意図」の方向に向かわせるための

  • 操作的言語

なんだから、ああ。今日も、そうやって誰かを口先でやりこめて、これからもそうやって彼らは、周りの連中を口先でやりこめて生きていくんだな、と。
まあ、典型的なのが、オウム真理教の「ああ言えば上祐」こと、上祐史浩さんで、あんな感じですよね。常に、周りの人間を口先でやりこめてやろうと身構えている感じで。怖いね。
まあ。そもそも「反論」してくる人って、怖いものですよね。つまり、それなりに論点をそろえて批評しているのに、そもそも「表象批評」だから、その論点に絶対に直接答えないんだよね。まあ、官僚の答弁みたいなもので、絶対に謝らないし、そもそも答えない。答えない代わりに、相手が自分の実存を侮辱しているという態度をとって(そういう意味で、存在論とか実存主義って文系のツールとして便利に使われているよね)、相手の人格攻撃を始める。結局最後は、彼らはそこに逃げるんだよね。あとは「社会的権威」みたいなものの格差をさらして、頭の悪い大学出と一緒にするなと、ひたすら嘲笑。

おばさんが楽しそうに会話しているので、彼はガンッと頭頂部を打ちつけた。あちこち身体をぶつけながら慌てて戻る。「......あの、だんだんおばさんが他人とは思えなくなりました」「うれしいわあ。わたしもあなたみたいな明るい娘がほしかったのよ」「ずうずうしいようですが、実は折り入ってお願いがありまして」「なに?」「この捨て犬のコーギー、もらってください!」
障害物競争の網くぐりのように急いで這いずり出たカイユは、土まみれ汗まみれになって立ちあがる。案の定、後藤がキャリーケースを抱きしめて縁側に腰かけていた。軍手を脱いで彼女の片腕を力尽くで引っ張り、庭の隅へと移動して、プロ野球の始球式に登板したアイドルのように大きくふりかぶって頭を叩く。
「いきなりなんなんですか」
同盟を結んだ仲間に裏切られたような顔を彼女がするので、
「今年一番のびっくりだよ」
カイユは周囲の鳴き声に負けない大声でいった。どうしてこいつは、小手先の根まわしや段階を踏んだ準備に惑わされることなく、一直線で目的を達成させようとするのか。
初野晴「ポチ犯科帳」)

カイユは後藤から、子犬の貰い手探しを頼まれて、ある父親の知り合いに心当たりがあると答えたのだが、カイユの予想としては難しいだろうと考えていた。まあ、育てるというのは、コミットメントをするということで覚悟が必要なのだから。
そこでカイユは、なんとかしてそれを「成功」させる確率を上げるために、父親の知り合いとして、最初は少しずつ近づいていって、相手の困っていることを手伝うことを幾つか重ねることで、相手の心を開かせようとすることから始めていた。そのために、カイユは後藤を自分が呼ぶまでは、来るな、と断って待たせていた。
ところが、上記の引用にあるように、後藤はそんな指示に、おかまいなしに、相手のおばさんをカイユの知り合いということで尋ねてきて、懇意になってしまう。というか、カイユの「苦労」など、おかまいなしに、ブッチャケ、子犬の話をしてしまう。

カイユは密かに生唾を呑む。後藤が大らかに構えていた理由がようやくわかった。パニックを起こしたのは自分ひとりだけだった。巧言令色、すくなし仁。DJヨネの教えが脳裏をよぎる。小手先で小器用、小利口にふるまって意味を勝手に糊塗するより、正直に信念を持って心情を伝え合うほうが人間の英知として深いものがあるのか。
初野晴「ポチ犯科帳」)
ひとり吹奏楽部 ハルチカ番外篇 (角川文庫)

ようするにどういうことなのか? 後藤にとってはカイユが心当たりがあると言った相手が誰なのかさえ分かれば、その相手の元へ行くことは当たり前だった。なぜなら、その人はこれから、この子犬を育ててくれる人なのだから、一刻も早くその人に預けな

  • ければならない

のだから。ある命を育てるということは、それだけ「尊厳」を試されることなのだ。もしも相手が、その子犬を見て「育てたくない」と思うなら、むしろ、その時点で、その人に育て

  • させてはならない

のであって、大事なことはその「現前性」だということなのである。巧言令色鮮矣仁とはそういうことであって、口先で理屈をこねまわしている連中を信じてはならないし、むしろ、そういう人間に子犬を預けてはならない。そういう意味で、カイユは自らを恥じる。後藤は生きるものの尊厳とはなんなのかをよく理解した人徳者だった、というわけである...。