2分の1成人式は何が問題か?

近年、2分の1成人式なるものが、ある種の自然発生的に全国で広まって、論議となっている。その論点の中心は、子どもによる「親への感謝」を往々にして述べるといった事態が起きていたからであるわけであるが、私はもっと根本的に問題だと思っている。
それは、別に、10歳になったからといって

  • 半分大人ではない

からだ。たんに「子ども」なのだ。つまり、これは「嘘」なのだ。
もしもこの「2分の1成人式」なるものを祝いたいのであれば、子どもたちになんらかの

  • 権利

を与えるべきだ。子どもが大人になり、あらたな権利を獲得するから「喜ばしい」のであって、これでは、なにを祝っているのか、さっぱり分からないではないか。
もっと極論をするなら、「2分の1成人式」を祝いたいなら、10歳を「大人」にすればいい。成人式は「通過儀礼」である。だから、大事なのであって、嘘を祝ってはならない。嘘を祝うなら、祝った方も祝われた方も不幸になる。なぜなら、それは嘘だから。
そもそも、2分の1成人式は一般の成人式のような、公式の行事ではない。
よって、2分の1成人式は一体これがなんの儀式なのかがだれも分からないから、だからこそ、子どもの

  • 無意識

がそこにあらわれる。ある子どもが親に感謝の言葉を発表したとき、それは、日常的な暴力に対する「アラート」であるのかもしれない。親に「感謝したい」ができない、という逆説を表現しているのかもしれない。
そもそも、親は「悪」である。というか、日常的に「悪」を行って生きている可能性がある。つまり、子どもは親の「悪」によって、うまい飯を食べさせてもらっているのかもしれない。
しかし、である。
儒教の重要なポイントは、たとえそうであったとしても、親というのを子どもはどう扱わなければならないかを書いたものだ、ということなのだ。親に子どもが感謝をする。これは特別な行事ではない。それは、産まれてから常にそうでなければならない徳目なのであって、そもそもそのことに他人は関係ないのだから、そんなことを人前で、まるで「特別」な意味があるかのように、そういった行事をみつくろって言うようなことではない。
子どもはある日、自発的に親に感謝する。それは、まったくプライベートな行為なのであって、さらにそれは、完全なる自主的な子どもの行為として行われる。それが、儒教の主張なのであって、公的な行事は関係ないのだ。
子どもがそういったパブリックな場で、親に感謝を言うということは、むしろそれは、常日頃、親が子どもに「無意識」に求めている行為なのだ。親は日常的に「悪」を行っている。だから、常に親は、世間の評判の危機にさらされている。だから、親は子どもを利用したい。なんとかして、他の親のいる場所で、子どもに自分を褒めてほしい。子どもは常日頃の親の態度にそういった雰囲気を察知して、そういった場で、そういった親の求めに答えようとするのだ。
大事のポイントは、2分の1成人式が

  • なにものでもない

がゆえに、完全な真空状態が発生して、子どもと大人の「無意識」が露出する、ということなのだ。この行事が結局のところなんなのかを、だれも決められないし、だれも主張できない。だから、子どもの無軌道な行為が

  • 露出

する。その中にはおそらく、親への感謝の言葉を述べたものもあるであろう。子ども自身の将来の夢を発表したものもあるであろう。しかし、そういった一つ一つの行為は、別に、「2分の1成人式」に関係ないのだ。大事なポイントは、ここに親と子どもの、ある「欲望」が反映する、ということなのだ...。