平等とは何か?

そもそも、私たちが「進化論」に注目したがるときとは、どういうときだろう?
それは、一言で言えば、「自然」を強調したいときだと言えるだろう。つまり、人間は「平等ではない」と言いたいときである。人それぞれで、能力の差がある。だから、結果の平等は実現しない。それはそうである。能力に差があるなら、同じ条件で競争をすれば、結果に差異が生まれる、ということなのだから。
しかし、そうした場合に、この差異を私たち人間社会はどうしたいのだろう? 多くの場合、この進化論は「不都合な真実」として使われる。つまり、遺伝子レベルで各個体に「差異」があることは自明だ。そして、それを言祝いだのが、ニーチェである。彼はそれを

  • 貴族

と言った。実際に能力があり、人々から卓越していることは、実際に「素晴しい」ことなのだから、貴族が大衆から抜きん出ていることは当然だ、としたわけである。
しかし、である。
よく考えてみると、これは変である。というのは、貴族が「素晴しい」のは、その貴族本人にとってそうであるに過ぎない。つまり、その「素晴しさ」は他人には関係ないのだ。もしそれが他人に意味があるものになるとするなら、その貴族の能力が他人のために使われたときである。
つまり、このことは何を意味しているのか?
そもそも、その「能力」において、卓越しているという「事実」が、それそのものにおいて(=アプリオリに)、価値がある、なんていうことはないのだ。多くの場合、貴族はその能力を自らの「利益」のために使う。そうである限り、それは他人には関係ない、ということになる。
この問題を考えたのは、ハンナ・アレントである。

まさに「革命」の課題は、政治的な意味における「自由」の創設にある。そうした政治的自由がはじめて生まれたのは、いうまでもなく古代ギリシアにおいてであった。

政治現象としても自由は、ギリシア都市国家の出現と時を同じくして生まれた。ヘロドトス以来、それは、市民が支配者と被支配者に分化せず、無支配関係(no rule)のもとに集団生活を送っているような政治組織の一形態意味していた。この無支配という観念はイソノミアという言葉によって表現された。古代人たちが述べているところによると、いろいろな統治形態のなかでこのイソノミアの顕著な性格は支配の観念(君主制 monarchy や寡頭制 oligarchy の ---- 統治する ----からきた -archy や民主政 demoracy の ---- 支配する ---- からみた -cracy)がそれにまったく欠けている点にあった。都市国家はイソノミアであると思われていた。『民主政』という言葉は当時でも多数支配、多数者の支配を意味していたが、もともとはイソノミアに反対していた人々が作った言葉であった。
すなわち、トクヴィルの洞察にしたがってわれわれがしばしば自由に対する脅威だと考えている平等は、もともと、自由とほとんど同じものなのであった。しかし、イソノミアの言葉が示唆している法の範囲内におけるこの平等は、政治的領域そのものが財産と奴隷をもつ者にだけ開かれていた古代世界においては、ある程度まであらゆる政治活動の条件ではあったが、本来、条件の平等ではなく、公民の一団を構成している人々の平等であった。イソノミアは平等を保証したが、それはすべての人が平等に生まれ平等に作られているからではなく、反対に、人は自然において平等ではなかったからである。そこで人為的な制度たる法律によって人々を平等にする都市国家を必要としたのであった。

(牧野雅彦「アレントと政治的思考の再建」)

思想 2017年 03 月号 [雑誌]

思想 2017年 03 月号 [雑誌]

もしも、遺伝子において「差異」があるから、人間の一部を貴族として、他を奴隷と「しなければならない」と考えるなら、これは一種の自然主義であり

  • 動物主義

なのだ。それは、明治維新において、欧米のテクノロジーをいちはやく受容した薩長が、その「差異」を利用して、東アジアの朝鮮半島と中国を自らの

  • 奴隷

としようとしたことからも推論することができるであろう。
古代ギリシアのイソノミアとは、そもそも、そういった自然主義に根本から反している。大事なポイントは、そういった人々の差異があるにもかかわらず

  • あえて

支配者と被支配者の関係に人々を「分けない」ということなのだ。いわば、これが「民主主義」だと言うこともできるであろう。
よって、イソノミアは究極的に「人工的」である。人間が自らの「自然」に反して作っている。しかし、なぜそうするのか?
それは、そうしなければ「自由」を実現できないからなのだ。
よって自由は、「平等」が生みだす。自由であるためには、そういった人間の間の能力の差異を、「人工的」に社会的なルールによって制限することで、

  • 始めて

人は「自由」を手にする。つまり、イソノミアの観点からするなら、「平等」だから始めて、人は「自由」になれるのである...。