國分功一郎『中動態の世界』

例えば、経済学にしても、一人の人間の「所有権」によって、始めてこの「経済システム」が成立しているように、ここにはある「主体」といった

  • 内と外

に分割されるような「境界」が「ある」ということが前提になっている。しかし、ここで言う「所有権」とは、それを所有する「意志」によって始まり、その所有を止める「意志」によって終わるという形の構造になっているわけで、

  • 主体 -- 意志 -- 責任

という三相構造になっていることが分かる。ここで言う「責任」とは、いわば、社会的な責任といったようなもので、自分でそれを所有することを「意志」したんだから、それを所有することによって発生する「責任」は引き受けよう、という意味になっている。
こう私が話してきたことを、「なにを言っているんだ、当たり前のことを」と思われる方は、ある意味において、うまい感じで「マインドコントロール」をされているとも言えるわけなんだけれど、それは、上記のレトリックがおかしいかどうか以前に、

  • 責任

をどういう形であれ、各個人が引き受けてくれる社会というのは安定する、ということなのだ。なぜなら、それだけ、国家なり、この社会システムを運営する側が余計なことを考えなくても、各個人が責任を感じて、自分で「落とし前」を着けてくれる、ということなのだから。つまり、「納得」してくれるような社会は、より強力だ、ということになるわけである。
こうやって聞くと、「でもこんなこと当たり前でしょ。やるべきことをやんなきゃなんないなんて」と言う人は多いのかもしれない。しかし、もしもこれが「支配者」側による、一種の「マインドコントロール」に私たちが、気づかないままに従わせられている、ということだったら、どう思うだろうか。
こういった「想定」は左翼すぎるだろうか? 保守系の人たちにしてみれば、被害妄想と思うだろうか?
結局のところ、国家であれなんであれ、市民を「コントロール」する政府系機関にしてみれば、市民の中から生まれてくる「テロリスト」の犯罪を、なんとかして未然に防がなければ、市民秩序を守れないのだから、ある程度の市民の「自由」の

  • 制限

はしょうがないじゃないか、となる。というか、実際にそうやって、市民は全員、国家の「奴隷」になる。だって、

  • しょうがない

のだから。しかし、この理屈に「対抗」できるようななにかを、現在の市民社会はもっているのだろうか? 上記の三相構造をもう一度考えてみよう。自分という「主体」が「意志」したんだら、その「責任」を自分が引き受けることは「しかたがない」。ということはどういうことか?

  • 私たちは日々行っている「意志」に病的なまでにナーバスになる

わけである。間違ったことを「意志」してしまったら、その「責任」が発生するのだから、ほんとうにこんなことを「意志」していいのかを考えなければならない。しかし、意志とは「意志してしまう」ことなのだら、これについて悩むこと自体が無駄だとも言える。つまりどういうことかというと、

  • 私が「責任」を引き受けることは、偶然でもなんでもなく<必然>なのではないか?

ということなのだ。実は、私は生まれたときから、国家にさまざまな「責任」を引き受けさせられるように、「騙されてきた」のではないのか?
私たちはこの現代という「自由」社会において、一見すると「自由」を許されている、社会によって「尊厳」を与えられた、誇るべき存在なんだと思っていたわけであるが、実は生まれたときにはすでに、社会から、ある一定の「重荷」を背負うように仕組まれている、ある種の「奴隷」として生まれているのではないか? よく考えてみてほしい。なぜ私たちは日々、「意志」に怯えているのか? 自分が行う「意志」は、確かに自分が行うはずであるのに、その結果として「責任」が問われる時点で、

  • 意志が生まれることが「怖い」

わけである。これが現代的な精神の病気として、現代人を悩ませている「ストレス」の正体なわけであろう。
私たちは現代の経済社会にとっての自明性の延長で、上記の三相構造を「自明」だと考えているわけだが、掲題の著者は、この考えに真っ向から反対する。つまり、

  • 主体などない
  • 意志などない

よって、

  • 私たちは「責任」という国家からの「脅し」に今のようには悩まなくていい

というわけである。

選択がそれまでの経緯や周囲の状況、心身の状態など、さまざまな影響のもとで行われるのは、考えてみれば当たり前のことである。ところが抽象的な議論になるとそれが忘れあれ、いつの間にやら選択が、絶対的な始まりを前提とする意志にすり替えられてしまう。過去から地続きであって常に不純である他ない選択が、過去から切断された始まりと見なされる純粋な意志に取り違えられてしまうのだ。
「意志など幻想だ」と言われるときも、実際には、意志ではなくて選択が扱われていたというのに、結論部においてはなぜか意志が否定されている場合がある。
たとえば、ある人が何かを選択するにあたり、その選択行為が明確に意識されるよりも前の時点で、脳内で何らかの活動が始まっていたことが実験によって証明されたとしよう。これによって否定されるのは、単に、選択の開始地点は人の明晰な意識のなかにあるという思い込みに過ぎない。そして、ある選択が、行為として行われた時点に至るまでのさまざまな要素によって影響を受けているのは当たり前であって、そんなことはわざわざ指摘するまでもない。また、脳内で起こることをすべて意識できるはずがないのだから、選択が意識されるよりも前に脳内で何らかの活動が始まっているのも当然である。

例えば、ルソーの一般意志というものがある。しかし、そのルソーの一般意志を「全体主義」として批判したハンナ・アレントは、古代ギリシアには「意志」という概念がなかった、という興味深いことを言っている。
上記の引用で、意志と選択が区別されているが、「選択」とは過去のさまざまな「いきさつ」を原因として行われる行為であるのだから、そうでないと定義される意志は必然的に

  • 一切の過去の原因から「切断」された(=「超越」した)

なにかでなければならないことになる。しかし、そんなことは人間に可能なのだろうか? ルソーやロベスピエールが主張したのは「同情」である。つまり、ルソーの「意志」とは同情のことである。しかし、ここに一つの疑問がある。

アレントがまず注意を促すのは徳が善とは必ずしも一致せず、悪徳が必ずしも悪とは一致しないという事実である。徳とはここで、人間の社会のなかでは通用しうる、そしてまた通用している道徳的規範のことを指す。大半の人が同意できる手本のようなものだと考えればよい。
ルソーやロベスピエールはそのような徳が、不運で貧しい人々の心に自然と現れるものだと考えていた。というのもルソーやロベスピエールは、富める人々のすさまじい利己主義を目にしていたからである。
冨のもたらす安楽は人間から、人間が本来もっている共感の能力を奪い取る。つまり堕落した社会こそが利己主義という悪徳をはびこらせる。それに対し、そのような安楽を知らない貧しい人々は共感の能力をもつ。彼らは同じ悲惨な境遇にある人々に共感し、同情することができる。「悲惨の苦悩は善を生み出す」。
ルソーやロベスピエールにとって、他人とともに苦悩する同情の感情こそ徳であり善であった。逆に利己主義こそ社会がもたらした悪徳であり悪である。こうして善と悪は徳と悪徳にボンヤリと重ね合わされる。フランス革命の人々は、徳は不運な人々が不運であるがゆえにもちうる「属性」であり、貧民の「世襲財産」であるとまで考えた。そしてそこに善を見た。
アレントは彼らのこの確信に根本的な異議を呈する。

一言でいえば、アレントはこの徳と善の混同に、ロベスピエールが陥った恐怖政治の一因を見ている。たとえば彼にとって「愛国心」は革命を支える徳である。そしてそては徳に過ぎない。ところがロベスピエールはそこに善を見る。だからこそこの善を追い求め、偽の愛国者を狩り出そうとする。
ロベスピエール自身が述べているように「愛国心は心の問題である」。したがって真の愛国者と偽の愛国者を見分けることなどできない。いや、疑いをかけられたならば、どんな人間も偽善者とならざるをえない。こうして偽善を排しようとする終わりなき闘争が始まる。疑わしき者を次々にギロチンにかける恐怖政治が始まる。

同情は、その対象にさまざまな「不徳」がある限り、「許せない」わけである。同情とは一種の「キャラ」である。相手が「キャラ」だと思うから「同情」できるのであって、不確かな要素をもっている人間であれば、その醜い部分が見えた時点で、その同情感情は冷めてしまう。
つまり、同情が徹底して「普遍主義」的であるからこそ、その同情の対象が伏在させている、ある種の「不道徳」が許せない。むしろ、そういった不道徳という「純粋でない」なにかについては、

  • 抹殺

してもいいというのが、ロベスピエールの恐怖政治であった。「意志」とは、上記にあるように一切に過去からの「原因」と

  • 切断

をして、意志を「発見」する。ようするに、オウム真理教である。出家して、一切の世俗との関係を捨てることによって「悟る」わけである。

読者は、ルソーの政治理論の全体系が依拠している、意志と利害との奇妙な同等視に気がつかれたであろう。彼はこれらの用語を『社会契約論』のなかでは同義語として用いている。そして彼の暗黙の仮定は、意志は利害のある種の自動的な発現であるということである。

革命について (ちくま学芸文庫)

革命について (ちくま学芸文庫)

こういった観点は、リバタリアンが「効率」と「自由」を混同する話と通底するものがある。なぜルソーが意志と利害を混同するのか、なぜなら、一般意志とは「一般的」なのだから、その意志は「計算」されなければならない。つまり、「合理的」でなければならない。よって、その合理性は「計算と一致するなにか」だと言っていることになるのだから、「利害」そのもののことを言っていると解釈されるわけだ。
これはどこか、進化論にも似ている。生き残れる「方法」が最初から分かっているなら、それを選ぶことが「利害」なのだから、それが「意志」、つまり、「一般意志」だということになる。まあ、ダメな功利主義そのものだということが分かるであろう。
なぜ、こんなことになるのだろうか?
それは、そもそもの経済学が前提する「所有権」がそうであるように、

  • 主体

という、なにか、この世界と「隔離」され「独立」した存在を仮定している時点で、その

  • 内と外

の議論をしないわけにはいかなくなる。しかし、こういった扱いはどこまで自明なのか? 掲題の著者は、その問題を今では無くなってしまった、インド=ヨーロッパ言語に存在した「中動態」という「動詞の態」という

  • 文法

の問題として考察する。なぜ「主体」なるものが当たり前のように前提とされるのか。それは、現在の文法における「能動態」と「受動態」の、ほとんど形式的には、当たり前のように

  • 反転

して使われるものとして、現代においては存在するこの「態」が、比較的最近になって使われるようになったものであることに注意する。この能動態と受動態の「文法」における、ほぼ自動的な「変換」が、

  • それは能動態なのか?=主体なのか?
  • それは受動態なのか?=客体なのか?

という、「内と外」の「分割」の自明性をもたらしている。つまり、私たち現代人が「呪われている」のは、この分割の「自明性」だということになる。
よく考えてみよう。
世の中の多くの出来事は、そんなに自明だろうか? というか、多くの場合、そんなに簡単には分けられないような微妙なケースって多いのではないか。というか、多くの場合は、そんなところに「分割線」を引くことに神経症的に「がんばら」なくても、もっと大事なことって多いんじゃないのか、ということなのだ。

われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。

早い話が、能動と受動の間には「グラデーション」があるし、あるのが当たり前だと言っているわけである(まあ、ようするにこんなところに、意味ありげに線を引く行為が、なんとも近代的な「病気」だってことですね)。
おそらく、短期的、中期的にはどうなるかは分からないが、長期的には、上記にあるようなスピノザ的な倫理学が世界的ルールにおいて、中心的な役割を演じるようになると思っている。それは、今の「所有権」から始まる、

  • 主体 -- 意志 -- 責任

の三相構造があまりにも「粗雑」であり、実際の人間の様相を反映していないから、ということになるのであろう...。