大澤真幸「誤配は続く ----東浩紀『観光客の哲学』を読む」

東浩紀先生の新刊であるゲンロン0については、まあ、いろいろとつっこみたいところはあるにはあるが、それらは、ある意味において、今まで、東先生が言ってこられた「持論」であられるわけで、まあ、そういったことについては、今までも、このブログでもいろいろと批判してきたわけで、今さら同じことを言ってもしょうがないかな、といったところがあるわけだが、ある一点については、ちょっと看過できないような

  • トンデモ

が書かれているわけだが、それは別に彼独自のオリジナルな発想とかそういうことではなく、「今さらこんなことを言っているのか」というウンザリ感が強いわけだが、そういった要点がどこにあるのかについては、掲題の論文がよくまとまっていて、勉強させられた。
掲題の論文は、東先生の今回の本が「自分」を含んだ「左翼」への批判として書かれていることをよく自覚した上で、東先生の御高説をたまわって「勉強させてもらいたい」といった態度で書かれている。

いわゆるリベラルな思想、あるいは左翼の思想は、ずっと長いあいだ、ひとつの同じことを繰り返し、手を替え品を替え論じてきた。他者を大事にしろ、と(多分、私もこのように主張してきたリベラル系の知識人の一人である)。が、他者の尊重を訴えれば実際に他者が尊重されるというものでもない。

これは一種の「挑戦状」として書かれているわけだから、いわゆる「左翼」はその「挑戦」に応答しなければならない。それが掲題の論文ということになるが、この内容は一種の「褒め殺し」とさえ言ってもいいような感じの「べた褒め」なわけである。
しかし、言うまでもなく、この本の内容は左翼批判の本なのだから、どう考えても掲題の著者の主張と違うことが書かれているわけなのであって、そもそも「全肯定」などありえない。というか、相手を「強敵」と認めながら、そのロジックに対して、一定の「尊重」をしている、ということなのだろうというのが伺える。
さて。最初に述べた「トンデモ」の件であるが、掲題の論文では以下のようにまとめられている。

社会の起源と生成について、次のような「神話」を描くことができる、と東は述べる。もともと格子グラフで描くことができるような社会がある。人々は身近な者とだけ、たとえば家族とだけ (主に)交流している。これに偶然のつなぎかえを導入すると、スモールワールドになる。これは、家族から市民社会への移行のようなものである。さらに、ここに人々が優先的選択の原理でどんどん新規参入してくると、格差のある資本主義に、最後にはグローバルな資本主義になるだろう。
このような社会への抵抗はどのようなものになるだろうか。今述べた「神話」が示しているように、国民国家のスモールワールドの秩序も帝国のスケールフリーの秩序も、「誤配」(つなぎかえ)から生ずる。ただ、もともと偶然的だったつなぎかえが、組織化された一定の傾向性が宿ったときに、二層構造が出現する。とりわけ、優先的選択の原理が加わったときに、スケールフリーの格差はあるグローバルな秩序が生まれる。とすれば、誤配の空間に偶然性をとりもどすこと、誤配をやりなおすこと、これこそが、グローバリズムへの真の抵抗にあるのではないか。これが東の提案であり、この「再誤配の戦略」が「観光客の原理」と名付けられている。

上記の議論のなにが「問題」なのか? というか、そもそもこういった「理屈」は今まで見あきてきたわけであろう。典型的なのが、ハイエクの「自生的秩序」論ではないか。上記は一見すると、真新しそうなネットワーク理論の概念を使っているが、言っていることは、ハイエクの「自生的秩序」論と変わらない。
「優先的選択」をやるべきでないということは、ようするに「自然のまま」にしろ、というわけであろう。つまり、「福祉」を止めろと、というわけである。ところが、それによって目指す世界は別に、「格差のない世界」ではない。「偶然生まれる格差<だけ>」がある世界にすぎない。これで一体、なにが解決されるのだろう?

そして、そのような実践の集積によって、特定の頂点への冨と権力の集中にはいかなる数学的な根拠もなく、それはいつでも解体し転覆し再起動可能なものであること、すなわちこの現実は最善の世界ではないことを人々につねに思い起こさせることを企てる。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

なにを言っているのか分かるだろうか? つまり、東先生は別に、格差の拡大を防ぐことを目標にしているのでもなんでもない。その格差の拡大が、あくまでも

  • フェアな偶然であるべき

だと言っているに過ぎなく、人間社会が作る「からくり」は、この「フェアな偶然」を壊すからダメだ、と言っているに過ぎない。
馬鹿じゃないだろうか。
というか、こういった「自生的秩序」に、多くの人が「批判」をしてきたわけであろう。それを今だに、こんなことを言っている人がいるということが驚きなわけであろう。
例えば、こんなふうに考えてみたらいい。ある「格差」が発生したら、次に何が起きるか。最初の段階で、ある格差が生じると、いち早くその格差に「勝利」した人たちは、それ以降において、自分たち「勝利者」が

  • 有利

なルールを作ることを目指すであろう。それは、どれだけその「格差」によって生じた資産を使うか、にかかっている。それは、さまざまな「条件闘争」に関係する。自分たちが有利になるルールを作ることだけではない。自分たちが不利になるルールを作らせない闘争も含まれる。いや、もっとてっとりばやく言ってしまえば、その時点で自分たちは資産を獲得して「有利」なのだから、このままルールがなければ、そもそも「有利」なのだ。
一つだけはっきりしていることは、そもそもその時点で、「お金がある」のだから、ルールメイカーにさまざまに「介入」ができる。ルールを自分たちに有利なようにコントロールができる。
これに対して、福祉政策というのは、一人一人のプレーヤーの「条件」を、なんとかして「平等」にしようとする政策なのだから、言うまでもなく、上記でいえば、「優先的選択」ということになるが、しかし、そもそもこの「優先的選択」で

  • 格差が拡大

するだろうか? もちろん、この福祉政策におけるルール作成にも、上記の「格差」勝利プレーヤーが、さまざまに介入するだろう。しかし、福祉政策は、そもそものその直接の「目的」が、この格差の拡大に対する「調整」なのだから、さまざまな

  • 指標

を使って、そのルールの「結果」の有効性を「評価」していけばいい、とも言えるわけであろう。
逆に聞きたいわけである。
なぜ「自生的秩序」なら、つまり「自然」に任せれば、「いい」ということになるのかw
典型的な、ハイエクとかフリードマンの「自由」の

  • 逆説

ですよね。
ところで、掲題の著者は基本的に東先生の議論を肯定しながら、ある一点において修正を要求している。

たとえば、日本人が浅田真央を応援しているとき、浅田真央は「私の友だちの友だちの友だち」だから、と思っているわけではない。

古典的なナショナリズムにとって、ネーションの同一性を規定しているメカニズムは、スモールワールド的なものではない。それは何か。難しくはない。あえていえば、ツリーの原理である。規律訓練の権力は、ツリーで描かれるような関係性を媒介にして働く。学校や軍隊のことを思えば、この点は明らかだろう。

さて、この微調整は何を意味しているのだろうか? おそらく、掲題の著者はナショナリズムの「有用性」について暗に示唆しようとしているのであろう。東先生の本では、ナショナリズムはトランプやブレクジットを代表として「悪の根源」のような扱われ方をしているわけであるが、早い話が、福祉政策が代表しているように、最も

  • 直接的

に世界の「不平等」を解決する可能性をもっている。もちろん、こういったシステムも、閉鎖的なガラパゴス的な外部の批判を排除するようなシステムになった時点で、堕落し腐敗していくのだろうが、少なくとも外部に開かれている限り、なんらかの

  • 相互批判

のチェック機構が働くことによる自浄作用が期待できる。
というか、そもそも人間の行うことなのであるから、

  • 当事者性
  • 現場性
  • 公開性

によって、「自治」をやっている以外の答えなんてありうるわけがない、と思うわけであるが、どうしてそう思わないのだろう?
考えてみると、上記の「神話」は典型的な、ルソーの「不平等起源論」なんですよね。つまり、「自然人」論になっていて、じゃあ、なんで「優先的選択」をやらなければいいのか、という理由になると、

  • 自然人(=ルソーが「同情」をよせる貧困者)は、みんな「いい人」だから

ってなっているわけでしょう。だから、なんだか分からないけど、ハイエクが言うような「自生的秩序」は「良い秩序」になる、っていうような、よく分からないレトリックになっている。
これを批判したのが、ハンナ・アレントの『革命について』なわけだけど、彼女はこういった「同情」の裏に、貧困階級の「自然人」性(=自分の視点にとっての「良徳」さ)を仮定してしまっていることを喝破する。しかし、言うまでもなく、貧困階級だって、この世界をはいずりまわって生きている何かなわけですからね。条件闘争もやるし、場合によっては人も裏切る。ところが、それに対して、「同情」主義者はびっくりしてしまうわけなんですよね。貧困階級が自分を裏切るわけがない。なぜなら、彼らは心が美しいはずなのだから、って(それだから「同情」したはずなんですからねw)。それで、ロベスピエールの恐怖政治になる。もはや貧困階級も関係ない。自分を裏切る時点で、そのような「心の汚い」連中は等し並みに「悪」なのだから、それは「悪」として処理する以外にあるはずがない。まさに、疑心暗鬼に怯える恐怖政治は、ほとんど全ての人々を断頭台の餌食にすることをためらわなくなるわけである...。

新潮 2017年 06 月号 [雑誌]

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