今さらのwラブライバー宣言

それにしても、秋葉原はいつから「ラブライブ」のコンテンツばかりが、街に氾濫するようになったのだろうか。
もちろん、その印象は人によって違うのかもしれない。確かに、見方によっては今でもアキバはAKB48のコンテンツばかりだと言う人も多いだろう。また、違った視点で、二次創作系について熱く語る人も多いであろう。
もちろん、そういった方々を否定したいわけではない。しかし、間違いなく、アキバは「ラブライブ」が氾濫している。多くのラブライブ関連のコンテンツが「消費」されている。
多くの人はもう忘れているのだろうが、ラブライブの声優は、あの大晦日のNHKの紅白にさえ出演している。NHKは何度もラブライブのテレビ版を放送し、映画版さえ、放送している。
なんと、今では、NHK「が」アキバの最重要コンテンツと化しているわけである。
なんでこんなことになってしまったのであろうw
おそらく、2010年代のアキバを「魅力的」に感じる感性をもっているかどうかは、自らがどこまで「ラブライバー」であるかにかかっているのであろう。この流れに乗れなかった人たちは、少しずつアキバが「古くさい」町並みに感じられて離れっていったのであろう。しかし、逆に「ラブライブ」の

  • 重要さ

に気付いた多くの人たちにとって、この街が非常に大切かつ「倫理」的に欠くことのできないものとして感じられたわけである。
アキバはラブライブのテレビ版においても、でてくる。第9話において、ことりはミノリンスキーとしてアキバの「カリスマメイド」としてバイトをしていたことが発覚する。しかし、そのこと以上に興味深い記述がされていたのが、いわゆるアイドルグッズのショップで彼女ら「自身」のグッズが売られていたことを、彼女たち自身が発見する場面だったわけであろうが、その様相はまさに、今のアキバの姿を彷彿とさせる。
私たちはこういった今の状況を、なんらかの文脈の中で考えたい傾向がある。一つ言えることは、「新しいテクノロジー」がそれを実現しているという側面である。近年のアニメに積極的に取り入れられてきた「3DCG」の技術が、多くの場面で今までではありえなかったような(または、短期間の納期では作成できなかったような)動きを実現できるようになった。おそらく、その制約の枷が外れたことが、近年のアニメ作品の今までにはなかった、斬新なストーリーを実現している。
ガルパンでの、あの戦車の動きが3DCGがなければ、まったく実現不可能であったように、ラブライブでのアイドルたちのダンスの「動き」の、見る人をはっとさせる、ああいった切れのある動きは、最初は初音ミクでの印象が先だったように思う。しかし、いずれにしろ、こういった「演出」を作品内で実現「できる」ということが、この作品を「完成させられる」ということに直結しているわけである。
しかし、こういったアイドルたちの「動作」を実現したことは、そういった「歌」そのものへの影響も無視できない。つまり、アイドルのダンスの「動的」な「開放」が、曲調や、特に「歌詞」そのものの性質に影響を与えていく。全曲の作詞をてがける畑亜貴の歌詞は、どこか、P2Pの倫理を思わせるような、個々の対人関係を意識したものになっており、アイドルグループが演奏の中でそれぞれがどう、それぞれを意識してダンスを踊るのかを、かなり具体的に示唆している、とも言えるのかもしれない。

そうだよ 信じるだけで
ぐんぐん前に進むよ、君が!
(ミューズ「僕らのLIVE 君とのLIFE」)

キミにつよく呼ばれたよ 走ってきたよ
(ミューズ「Wonder zone」)

壁は Hi Hi Hi 壊せるものさ
Hi Hi Hi 倒せるものさ
(ミューズ「No brand girl」)

不思議だね いまの気持ち
空から降ってきたみたい
(ミューズ「Snow halation」)

Oh,Love&Peace
優しい風になれ心
そうさ元気をあげたい 頑張るから
Oh,Love&Peace
君が悲しい時ずっと
抱きしめると誓おう 忘れないで
もうつらくても泣かないで独りぼっちは
卒業しよう Love&Peace
(ミューズ「Oh,Love&Peace」)

上記のようなまさに「動的」なイメージを抱かせるような歌詞はたんにそういった歌詞を作詞者が意図した、というだけに解釈すべきではない。これらの歌詞はこの作品において、アイドルであるアニメのキャラが「演じる」わけであり、その「動的」なイメージが、まさにこういった動的な表現を可能にしているからこそ、可能になっている、と考えるべきと思うわけである。
(今回は、まあ、私なりの今さらな感じの「ラブライバー」宣言ということで、その序章みたいな形で書かせてもらったが、一応、その後継作品としてのラブライブサンシャインについても、言及しておくべきなのであろう。もちろん、こちらはまだ完成していないわけで、その途中において、作品の評価を云々すべきではないのであろう。ただ、一つの影響として、こちらの第一期において、そのミューズのキャラが登場人物として現れているわけではないが、ミューズが存在したことは作品において、さまざまな個所で示されているわけで、むしろ「目標」にしていたりする。おそらく、こういった作品の関係がある限り、アクア側のなんらかの決着がない限り、ミューズ側の次の展開は描きにくいということなのだろうとは思っている。そういう意味で、私はあまりどちらが傑作でどちらが駄作でとかそういう評価をしているわけではなく、普通に今の状況をこのように理解している、という程度である...。)