孤独な優等生JK

アニメ「ラブライブ」を最初に見た人が、すぐに気になるのは、だれが「作曲」をするのか、という点ではないかと思う。それについては、第一話から一年生の真姫ちゃんを穂乃果が音楽室で発見することで、彼女の担当ということで、その後展開している。
しかし、この「話題」はなぜか、それ以降、話の中心にはでてこない。つまり、概ね、「作成」段階の描写はこの作品のメインの描写対象にならない。衣装と振り付けはことり、作詞は海未、そして、作曲は真姫ちゃんが行うということになったのだが、ほとんどと言ってもいいくらいに、その作成段階の描写はアニメの中では行われない。
このことをどう考えたらいいのか、という問題がある。そもそも、高校生が作るものであるのだから、「実際」のものとしての歌はもっと、素朴なものだったと解釈すべきではないのか、というものがある。つまり、アニメで描かれた彼女たちのパフォーマンスは一種の「イメージ」として描かれたものであって、あれをリアルな描写と解釈すべきではない、というわけである。
確かに、真姫ちゃんの作曲はいわば、ピアノによる素朴なもので、実際の曲のような、さまざまな編曲がされているのもまで彼女が作曲をしていると考えることは限界があるように思われる。
それにしても、なぜ彼女はミューズの作曲を引き受けることになったのだろうか。それについては、アニメにおいて説明されている。家の医者を継ぐために、将来は医者になることが決まっていて、成績優秀の彼女は、いつも学年トップの成績であったが、あまりクラスの生徒とは話さない子どもであった。子どもの頃から、音楽が得意で、さまざまなピアノの賞をとってきたが、将来を家を継ぐために音楽をあきらめるしかないと思っていた彼女は、ミューズの中に自らの音楽活動の一つの

  • 置き場所

を見出すことになる。
しかし、よく考えてみると、上記の「いきさつ」はあまりにも説明不足な印象をぬぐえない。本当はもっと、彼女の中の「かっとう」を描くべきだったのであろうが、まあ、9人もメンバーがいるので、その中心として扱うのには、限界があったのかもしれない。
同じような展開をたどって描かれたのが、アニメ「バンドリ」であった。こちらの作品における、

は同学年でトップの成績でありながら、授業には時々しか出席しない。あまりに成績がいいために、出席日数が少なくとも、単位をもらえ卒業できる、となっているからであった。通学路の壁になんとなく貼られていた星のシールをたどって、有咲の家の倉にたどりついた主人公の外山香澄は、有咲と二人でガールズバンドを始めることになるが、その代わりに有咲が要求した条件は

  • 昼休みに一緒にお昼を食べること

であった。
この二人に共通することは、

  • 孤独であること
  • 勉強ができること

と言えるであろう。こういった関係は、最近読んだ小説の、武田綾乃の『立華高校マーチングバンドへようこそ』における、梓と芹菜(せりな)を思い出させるものがあるが、「孤独なJK」の問題がここでは描かれている。
例えば、昔のアイドルを参照点にしてみよう。一点において、頂点を極めていた「松田聖子」に対して、非常に特殊な立ち位置において、その「居場所」を示していたのが、「中森明菜」であった。しかし、その場合、明菜の立ち位置はどちらかというと

  • 不良少女

といった解釈において彼女は「消費」されていた。中森明菜のアイドルとしての歌詞は、まさに、その一つ前の世代になる、山口百恵に連なる系列の「不良少女」として、解釈された。おそらく、上記の

  • 真姫(まき)、有咲(ありさ)、芹菜(せりな)

には、そういった系列の臭いを感じなくはない。それはどこか、一般的に「規範」性に、抗う「抵抗」の意志を感じるからだ。彼女たちは、まさに「逆説」的に、勉強ができるがゆえに、クラスで孤立する。クラスの誰とも話さないが、そのことが、彼女たちが今の青春の重要さを理解していないことを意味しているわけではない。むしろ、頭が良すぎるがゆえに、多くのことを考えてしまう。彼女たちは不良少女の「抵抗」のポテンシャルを維持しながら、むしろ回りのさまざまな「いきさつ」に

  • まきこまれ

て前に進んでしまう。有咲(ありさ)の口癖は

  • マジかー

である(嗤。彼女がそう言うとき、ドラマは、青春は前に進むのだ...。