グローバル化とは何か?

そもそも、グローバル化がさかんに言われたのは、小泉政権での新自由主義においてであった。
それは、工場の海外流出という文脈で語られた。その後の民主党政権においても見られたように、その当時のトレンドは「円高」であった。円高においては、労働者の賃金がほとんど全ての企業の支出になってします。そのため、多くの工場がまず、中国に向かった。中国の労働者は、10分の1とも20分の1とも言われ、こういった契約をアウトソーシングと言われた。
一方、国内の大企業が徹底して進めたのが、

の導入であった。そもそも、社員とは「幹部候補」という意味であった。だから、新卒採用なんていうのをしていたのであって、そういう意味では、企業において数えるほどの存在が「社員」であればいい、という前提があった。いわば、その前提にこの時期、戻ったわけである。
すると、この時代は「ゼロ年代」として、一種の「バトルロワイヤル」的な

として解釈された。人類社会の「アナーキー」化である。日本の労働者は、海外の労働者と「競争」する。その競争に勝てなければ、たとえ日本人であろうと、

  • 飢えて死ぬ

んだ、と。つまりは、こういった「比喩」によって、当時の厳しい状況が解釈された、というわけである。
ところが、その後、安倍政権になり、リフレ政策がとられるようになると、基本的には「円安」の時代となった。
ここから、話がおかしくなってきた。
円安ということは、むしろ、国内の労働者は「割安」となってきた。中国に開発を投げても、中国の沿岸部は賃金がどんどん高くなっていて、あまり日本の労働者と比べても、割安ではなくなってきた。
結局のところ、この今の状態をどのように説明すればいいのか、多くの人が分からなくなってきたのだ。
例えば、EUを考えてみよう。言うまでもなく、EUは緊縮政策を行っている。極端に、各国に借金の減額を強いていて、そもそも、その基準からすれば、日本はEUに入れない。
フランスのルペンは、日本が「模範」だと言っている。日本のように金融緩和をすべきだと考えているし、そのためには、ユーロから離脱して、もう一度、フランに戻るしかないと考えている。
なぜ、日本の知識人は、フランスのそういった状況について語らないのであろう? 早い話が、日本はいつまで金融緩和政策を続けられるのか、が問題なのだ。いつまで、この政策を続けられるのか。EUはいち早く、リフレ政策を継続できなかった。じゃあ、日本はいつまで行なえるのか?

吉田徹 世論調査をやりますと、グローバル化があなたの雇用にプラスになりますか、マイナスになりますか、と聞くと、ルペンを支持する人たちの6割がこれはマイナスだ、と言う。国境を開くことは自分にとって損をする。逆にマクロンを支持する人たちっていうのは、関係ない、影響を受けないと言う人たちが6割ですけど、むしろポジティブになるという人たちが2割ぐらいいる。それぐらい、一つの国民国家に二つの種類の国民が、住む場所とか、住んでいる地域とか、学歴とかによって、パラレルワールドに住んでいる状況で、これは、仮説をまじえて言うと、ポスト産業化になって、サービス業が代わりに進展してくる。そうすると、雇用の質は二極分化してしまう。つまり、ハイエンドの部分は高学歴で高技能で場合によっては専門資格をもって、国境をやすやすとジョブハントできる。それから、ローエンドの方は、低賃金、これは移民に奪われる。あるいは、AIでおきかえられる。戦後の民主主義を支えてきたような、旧中間層の人たちがまったく行き場をなくしてしまうわけです。そういう人たちが、トランプとかルペンとかブレクジットに投票してしまう。
VIDEO NEWSフランス大統領選で見えてきた民主政の本当の危機

こう考えてみると、そもそも、

などというのは、存在するのか、という印象を受ける。海外取引で儲かる人はグローバル化賛成、儲からない人はグローバル化反対って、

  • 当たり前

の反応なわけでしょう。海外に職を奪われるリスクがあれば反対、なければ賛成って、自分が選んでいる仕事の性質そのもので決まっているとも言える。だとするなら、こんな基準に、なんの意味もない。
つまり、分裂なんて最初から存在しない。
つまりこれは、最初からグローバル化問題ではない。そもそも、なぜ「金融緩和」政策に富裕層は反対するのかといえば、円高であれば、海外で仕事をするときに、円の価値が高いのだから、有利だからなわけでしょう。ところが、金融緩和をされて、円の価値が下がると、海外で仕事が難しくなる。自分がもっている円の価値が低いから、海外でいろいろ買おうとすると、不利になる。
ようするに、円安は究極の国内労働者への「救済策」であることを意味している。
円安であれば、国内で作った商品を海外で売るとき、海外の人には割安感があるわけだから、製造にインセンティブが産まれる。すると、さまざまな産業に投資のインセンティブがでてくる。なにかしら、商品を作って、海外で売ることが「お得」であることに気付いてくる。しかし、なにかを製造するためには、労働者が必要である。よって、次第に「人手不足」が、さまざまな業界であらわれてくる。よって、労働者が「売り手市場」になってくる。給料が高くなってくれば、消費が活発になってくる。人々が少しくらいの贅沢は、将来の見通しがいいから、まあ、やっちゃってもいいんじゃないかと、財布の紐が緩み始める。
しかし、おそらくは企業はこの動きに抵抗するであろう。海外からの移民を多く受け入れて、安価な労働力を増やそうとする。しかし、そもそもこの方向はどこまで定常的に行えるのかは、金融緩和政策をどこまで続けられるのかにも関係している。
私がここで、一貫して感じている違和感は、上記におけるゼロ年代的な「弱肉強食」社会のイメージである。彼らがそこでイメージしていたのは、底辺労働者階級が、世界中の労働者と「競争」をする、というわけである。そして、実際に上記の引用にもあるように、そうやって競争をさせることによって、富裕層は

  • 儲ける

というわけであろう。しかし、これは変なわけであろう。なぜ同じ国の国民を助けないのか? つまりは、ここで問われるべきなのは、ある種の「メンバーシップ」なのだ。
ここで一つの補助線を引いてみよう。テレビアニメ版「リトルウィッチアカデミア」の第2期は、第1期と少し様相が違ってきている。
現代魔法を専門とするクロワ先生の登場によって、現代のIT系とのアナロジーを積極的にとりいれた、チャレンジングな脚本になっているだけでない。アッコが言の葉に「選ばれた」存在であることが、ストーリーの中心に置かれるようになったことに反比例するかのように、むしろ、学園の一人一人が

  • 主人公

であり、その一人一人の「活躍」を陰で支える存在として、アッコが重要な存在として描かれるようになる。
それは、彼女がこの学園に来て、むしろ、この学園のすべてが「大事」だと感じるようになっていることに関係する。
第19話で、アッコは自主退学を決断するダイアナを認めない。それは、彼女が本当は学園に残りたいと考えていることを知っているからだ。夜中にこっそりと学園を去り、自分の家に帰っていくダイアナをつれもどすために、アッコは、ダイアナの家に向かう。

アッコ 私はね。ルーナノバに来ることがずっと夢だったの。シャリオにあこがれて、シャリオが通ったこの学校に来るのが夢だった。でも、今はそれだけじゃない。この学校で経験したこと、出会った人、全部が大事なことだよ。その全てが今では、シャリオと同じくらいに大事になったんだよ。ダイアナだって、ルーナノバが好きじゃないの? そんなに簡単に辞められるものなの?

アッコがここでこだわっているのは、同じ学校で一緒に学んでいる仲間たちは自分と同じように、「満足」して学園生活を送るべきだという「価値観」である。
おそらく、同じような価値観がナショナリズムにはあるのだろう。同じ国に産まれた「仲間」なら、同じような「人的資本」、つまり、ある程度は同じ教育を受けるべきであるし、フェアな扱いを受けるべきなのであろう、といったような。しかし、それを可能にするような「アーキテクチャ」はどのようにして可能になるのだろうか?
例えば、タックスヘイブンのようなものを考えてみよう。日本国内で商品を売って、多くのお金を儲けている会社や、経営者が、日本国内に税金を払わず、タックスヘイブンで実質的な「脱税」を行っているといった事実は、言うまでもなく、少し調査をすれば分かる。しかし、こういった行為はそもそも「倫理的」に受け入れられるのであろうか? それは、

  • 誰が

受け入れられるのか、ということである。大事なポイントは主なお金を稼いでいる場所が日本国内でありながら、日本に税金を払おうとしない行為は、一種の「売国奴」的な色彩がある、というわけなのである。だとするなら、日本国民はこういった企業の

を行うべきなのではないか。むしろ、こういった「活動」が弱いわけである。しかし、なぜ弱いのだろうか。スラップ裁判などの脅しによって、個人が分断されているからであろうか。大事なポイントは「実践」である。私たちは「おかしな」ことを言っている連中と、戦わなければならない。そういった御用学者との「戦い」を止めた時点で、世界は労働階級の「弱肉強食」という

  • グローバル社会

にされてしまう。むしろ、ここで問われているのは、細かな「条件闘争」なのだ...。