加計王国

今回、自民党都議会議員選挙で大敗したことは、いわゆるアベノミクス自民党が推進していて、そのアベノミクスに野党が「反対」している限り、自民党が負けることはない、と言っていた人たちの「期待」が裏切られたわけだが、さて。なんだったんですかねw
たしかに、自民党の推進するアベノミクスだかリフレ政策だかで、求人倍率は高いのだろうし、それによって若者の安倍政権への支持率は、とりあえずは高いのかもしれない。
しかし、このことは本質的なのだろうか?
なぜ「リベラル」という概念はダメなのか。なぜ「リベラル」という概念は非倫理的なのか。それは特に、日本の文脈において、「リベラル」という概念が

  • 資本主義に肯定的

というふうに解釈され、つまりは、

のことを意味しているからなのだろう。つまり、リベラルとは「貧富の格差の拡大」を認める代わりに、それ以外の基本的な人権などの啓蒙思想を継承する態度だからだ。しかし、普通に考えて、「貧富の格差の拡大」を肯定しておいて、それを「人権派」だとか「啓蒙思想」だとか言うことには無理があるわけであろう。
私が彼らの「悪魔」性を疑っているのはここにある。彼らは、そういう意味では政治で「遊んで」いるわけである。政治で、特に富裕層でない一般の人たちを自分たちは「リベラル」だから、

  • 仲間

なんだと言って、だましているわけである。彼らは「福祉に反対」であり、一切の「平等化政策に反対」であり、もっと究極まで、お金持ちの税金を下げろと主張している。そして、その分を、貧困層から奪え、と隠微に主張している。そうであるにも関わらず、自らを

  • リベラル

と称しでいる。まさに、私が「鬼畜」とか「悪魔」と呼ぶにふさわしい、非倫理的な存在なのだ。
おそらく、今回の自民党の圧倒的な敗北には、端的に日本が

  • 加計王国

であったことに国民が気付いたことが決定的なわけであろう。安倍首相を中心として、政権は完全に「加計ファミリー」によって固められている。つまりは、日本の陰の総理大臣は今だに、マスコミに姿を見せない。加計という人物だった、ということが分かってきた。
安倍首相も、萩生田も、基本的には加計を「守る」ために、ずっと国民に嘘をつき続けている。ところが、嘘をつけばつくほど、大衆の「集合知」が、まさに、東京オリンピックのロゴ問題で、佐野研二郎の過去の

  • すべて

の作品が基本的には、「パクリ」だったといった印象をもたされたわけだが、確かにそう言われれば、そんな気もしないこともない、という「微妙」なものだったことに大衆が気付くことで、徹底して彼の権威が失墜したのと同じような状況が、

  • 加計ファミリー

であり、

  • アヘファミリー

に滲透している。萩生田がアウトドアで加計と、しかも、安倍もまじえてくつろいでいる写真を自分のホームページにアップしておいたのにもかかわらず、それまでの国会での答弁では、まるで、まったく面識がないかのように答えていたわけであるが、こういった

  • 姿

こそが、国民の最も大きな「侮蔑」につながる。日本人は昔から、嘘を言う人間を許さないし、それは「自ら」がそういった「倫理」を生きていることを意味している。
おそらく、この加計問題は、安倍が首相にい続ける限り、当分は終わらないし、まったく火の粉は収まらないのではないか。それは、これからも、

  • 加計ファミリー

は、しらをきり通すであろうし、そのたびに、国民の侮蔑の感情は高まりこそすれ、消えることはないからだ。しかし、それに対抗する安倍首相の手段は、

  • 国民年金を使って、日本の大企業の株を買い占める

ことによる、「好景気の偽装」によって、ということになるのであろうが、まあ、国人年金という、国民の将来の「安心」を、こういった

  • ギャンブル

につぎこむ、非資本主義的政策を一体、いつまで続けられるのか、ということにもなるのであろうw 安倍首相が加計問題で「譲れない」という態度をとり続けていることは、佐野研二郎のパクリに対する「抵抗」の姿に似ている印象を受けなくもない(おそらくは、それだけ「譲れない」ような、本質的なところを、それぞれがつかれている、ということを意味するのだろう)。一体、どこまで、しらばっくれるのか。その醜態をさらし続けるのか。というか、こんなグダグダのレームダックのまま、本当に、安倍政権があと何年も続くのか。そんな安倍を見続けることに、国民は我慢ができるのか...。