その主張はどれくらい「強い」のか?

凡庸な哲学者は「真実」を語るが、アマチュアリズムはその命題が

  • どれくらい強いか?

にしか興味がない。つまり、「仮定」にしか興味がない。ここは本質的である。というか、こういった態度は、いわば「内容」を巡る「権威主義」に従わない、ということになる。東大出身の偉い学者が言ったなら、その権威にひれふさなければならない、といったものに対して、そういった「真理主義」を相対化する。
公理主義とはそういったもので、ある主張が「正しい」かどうかは、いったんおいておいて、その「論理的結論」に至った結果において、どういった「真実」についての「言明」を組み合わせて、そこまで至ったのか、それを

  • 列挙

しよう、というわけである。つまりそれを、ひとまず「公理」としよう、というわけである。そうやって考えると、あらゆる「論理的結論」は、有限個の幾つかの主張を組み合わせて導かれている、ということが分かる。しかも、そういった主張はより「洗練」できるはずであろう。つまりその「最小」の組み合わせのようなものを考えることができる。もちろん、それは一種類ではないかもしれないが、

  • そういったもの

の一連のものから、ある「比較」が成立するわけである。つまり、

  • この命題は、比較的に「弱い」公理から導ける
  • この命題は、かなり「強力な」公理がなければ導けない

といったように。では、それぞれの命題はどれくらい「強い」のだろう? これを考えることを以下の本では「逆数学」と呼んでいる。

ここで、2階算術について簡単に説明しておこう。自然数を対象とした理論を「1階算術」といい、自然数自然数からなる集合の両者を対象とした理論を「2階算術」という。2階算術の公理系 Z_2 は、自然数の順序や和積演算に関する1階算術の諸公理と、定義し得るどんな自然数の集まりも "集合" として扱えることを保証する集合存在公理(内包公理)から成り立っている。体系 Z_2 は「実数論」あるいは「解析」とも呼ばれ、一般の数学のかなりの部分がそこで展開できることはヒルベルトとベルナイスの研究以来よく知られている。もちろん、集合論を使えばもっと楽に現代数学の殆どをカバーできるが、それでは逆に器が大きすぎて中間値の定理と実数の公理を区別するような議論はしにくいのである。
体系 Z_2 の集合存在公理に種々の制限を付けることによりいろいろな部分体系が得られる。以下の議論において特に重要な体系は(証明能力の)弱い方から順に、RCA_0、WKL_0、ACA_0、ATR_0、\sum^1_1-CA の5つである。正確な定義は後にまわすが、例えば RCA_0 は Recursive Comprehension Axiom(再帰的内包公理)の頭文字をとったもので、この体系では再帰的集合の存在のみが保証されている。これら5つの体系の無矛盾性は証明論においてすでに確立したもの(とくに \sum^1_1-CA の無矛盾性は竹内外史氏による)と考えられているが、それより本質的に強い集合存在公理を持つ体系の無矛盾性についてはまだ議論が続いている。
1974年頃、H.フリードマンはZ_2 の各部分体系でどれだけの数学が展開できるかを調べ、次のような現象に気付いた:

数学の定理の多くは RCA_0 で証明できるか、そうでなければ上にあげた他の4つの体系のどれかと論理的に同値であることが RCA_0 において証明できる。

これは「逆数学現象」と呼ばれ、その後もこのパターンに当てはまる数多くの定理がS.シンプソンを中心とする研究グループによって発見されている。しかし、この現象に当てはまらない例も少なからず知られている。

逆数学と2階算術 (数学基礎論シリーズ)

逆数学と2階算術 (数学基礎論シリーズ)

世の中には、大学で「哲学」なるものの、古典の論文(=文学w、物語w)を読んで勘違いをしてしまった人たちによって、俺は「真実」を語るぜ、といったまあ、

が、いつまでたっても終わることなく繰り返されている。しかし、私のような「アマチュア」にとって、そもそも、そういった議論に付き合ういわれもない。偉そうな学者が言っているからといって、なんで「はい、そうですね」と相槌を打たなければならないのかw そういった

  • 意味不明

な衒学は、おそらくはそういった「科学者集団」であり、知識コミュニティの「中」では通じるジャーゴンなのであろうがw、なんで、「アマチュア」でしかない私が、そんな「パズル・ゲーム」に付き合わなければならないのかw
そもそも、私は「偉そう」な奴が嫌いなのだ。つまりは、偉そうにしている時点で、私はそいつらの言うことに従わないのだがw
しかし、それに「従わない」ということと、そういった「議論体系」がどういった「構造」になっているのかは、まったく別に議論ができる。そういった議論が実際のこの現実世界において、「正しい」か「間違っている」かに関わらず、その体系が

  • 矛盾しているか、矛盾していないか

については議論ができる。しかし、そうした場合、もしもその理論が矛盾をしていないなら、なんらかの「意味」で、それは、この世界の「何か」を説明しているのかもしれない、と考えることはできる。しかし、少なくともそこに矛盾があるなら、それは現実の何かを説明はしえない。
しかし、その議論をもう少しつき進めてみると、その「主張」を成立させるのに

  • 必要最小限の「枠組み」

ってなんなのだろう、と考えることは普通に思いつくわけである。たくさんの「公理」が、この世界の全てを導くのには必要かもしれないけど、少なくとも、今主張したいそのことについては、それら全てが必要なわけではない。実際、使う「公理」は少しだろう。だとするなら、世の中の多くの「定理」には、なんらかの

  • 強弱

があるということを意味しているわけであろう。非常に強力な、まるで「神」にでも近づくような、超越的な主張をすることと、日常的な常識的なことを主張することには、その「定理」の「強弱」が違う。
こういった「逆数学」という発想は、前回述べた、「公理的集合論」が、あまりにも強すぎる、といった議論と本質的には同じ関心から始められている、と考えられる。
強すぎる主張は、ある意味において、「矛盾」を導く可能性があると考えることができる。そうだと考えるなら、なるべく「弱い」公理、つまり、「常識的な内容」の公理だけで導けるなら導いておいた方が

  • あとあと「安全」

なんだ考えることもできるであろう。偉そうな哲学者であればあるほど、どう考えても「危険」な主張をして、ドヤ顔をしたがっている中二病を見かけることになるわけだがw、そういった態度は「アマチュアリズム」に反している。アマチュアは、そういった

  • コンテクスト

に付き合わないわけである。偉そうな連中の、「はったり詐欺」と徹底的に戦うわけである...。