松果体主義者

現代の哲学者は、多くはピーター・シンガーに「共感」する人たちというくらいの意味しかなくなっており、つまりは「功利主義者」ということのようである。そして、ピーター・シンガーに代表される「功利主義者」たちは、すべからく、カントを罵倒している。つまり、功利主義者ということは、なんらかのカントの主張に嫌悪感をもつ人たち、という定義の方が正しいようであって、

という定義に変えた方がより真実をついているんじゃないのか、と思ったりするw
ところが意外なことに、と言ったらいいのかどうかよく分からないが、数学関係の人や、コンピュータ関係の人たちには、カントというのは比較的に評判がいい。というのは、カントの「理性の限界」という考えは、数学やコンピュータがやっていることと親和的だからなのだ。
つまりは、「直観主義的論理」と呼ばれるものである。直観主義的論理の特徴は「排中律をもたない」というところにあるが、そもそもコンピュータは、直観主義的論理である。なぜなら、そもそも「有限」の世界なのだから。というか、基本的に現実世界は直観主義的論理なのだ。なぜなら、私たちは

  • 神ではない

のだから。カントが言っていることは、人間には限界がある、ということであって、なぜ功利主義者がカントに嫌悪を抱くのかといえば、カントが言う「限界」が、功利計算の

  • 限界

の認識を突き付けるから、と言えるのではないか、と思っている。私たち人間は神ではない。しかし、功利主義者が「計算する」と言っているその「功利」は、そもそも神でなければできないのではないのか? なぜ功利主義者はそのことに答えないのだろう?
カール・ポパーの言う「反証可能性」というのは、基本的にカント主義だと言っていい。そのことは、二つの意味があって、

という意味と、

  • どんな「未来」においても、あらゆる命題は「仮説」でしかなく、絶対確実な「真実」に人間は辿り着けない

という意味の二つに分かれる。しかし、もしもそうであるなら、カントが言っている「観念論」を馬鹿にできないんじゃないだろうか。つまり、なにかを「確実」だと言うことができないということは、私たち人間は「観念」という牢屋の外には出れない、ということを意味しているのだから。
功利主義がカント主義を馬鹿にするとき、ある一つのことについて完全に失念している。それは、

  • 自然=科学

が「実体」と代替されるものとして「仮定」していることのナイーブさについてである。
さて。科学は「実体」に迫れるだろうか? このことは、科学が「自然」なのだろうか、と問うことに近い。もしも「自然」なるものが

  • 実体

としてあるなら、人間は「それ」をどうやって「記述」するのか、という「功利主義」の問題となる。ところが、カント主義においては、そういった「自然」の実体性を問題にしない。なぜなら、カントにおいては「観念論」は基本的な議論の出発点だからなのだ。それは「自然」を「実体」と呼ぶことを拒否している、と言ってもいい。というか、もはや観念と「自然」を区別しない。それが区別「できる」といったような観念こそが

  • 理性の越権行為

だからだ。
例えば、認知的不協和を考えてみよう。一体、どうやって「私」は自分が認知的不協和に陥っているということに気付けるだろうか? いや。それが不可能だから、認知的不協和なのだ。だとするなら、なにかを「客観的」と呼べる資格がどうして、「私」にあるのだろうか。それは、マルクス主義においても同じだ。自分が、この資本主義という魔の手から逃れられると考えること自体が、なんの根拠もない「空想」だということになる。しかし、だとするなら、カントの言う「観念論」は、それが実体が「ない」ということを主張しているのではなくて、

  • 絶対に私たちが「観念」と、それ以外を「区別できない」

という意味において、それを「観念論」と呼んでいることを示しているとは言えないだろうか。
こういった事情は、デカルトが「心の実体」を「松果体」に見出したことに比較できるであろう。功利主義者は、いつまでも、いつまでも、新たな「松果体」を見つけて、

  • これが「心」の正体なんだ

と言い続けている人に比較できる。彼らは自らの死の直前まで、「真なる心」の正体を掴もうと努力し、なにかにぶつかるたびに、

  • これが「心」の正体なんだ

と叫ぶことを日課としている。しかし、それは「相関関係」と「因果関係」を混同している人たちが絶えず繰り返す、

  • ボクノホントウノ「気持ち」

主義みたいなもので、二元論である限り、絶対にこの鳥籠から外に出ることはできない。常に、「新たな敵」を見つけては、カントをボロクソに罵って、気分をスッキリさせて、また新たな敵を探す。なぜ功利主義はうまくいかないのか。それは、功利主義の「敵」によって、つまりカント主義者によって、いつまでも、功利主義者は絶えず、窮地に落とされるのから逃れられないから。
そうやって、功利主義はまた新たな

を見つけだす。それこそが、「心」の真の「実体」だと主張するために...。