太田紘史ほか『モラル・サイコロジー 心と行動から探る倫理学』

人間の利他行動がなぜ存在するのか、というのは、進化論的にはうまく説明できない現象とされている。なぜなら、普通に考えるなら、自らの遺伝子を残す戦略とは「利己的」であることと考えられるから。だとするなら、この人間の「利他行動」は、人間の高度な「集団行動」が強いてきた傾向性のものと考えるのが普通なのだろう。

コスミデスとトゥービーは、このような問題にすると正答率が向上する理由について、規則が社会契約のかたちになっているからだ、と主張している。つまり、ヒトには互恵的利他行動への適応として、利益を得るが代償を払わないというただ乗り個体を見つけ出すための認知的適応、つまり裏切り者検知メカニズムがあり、規則が社会契約のときにそれがほぼ自動的に発動するというわけだ。
(太田紘史「モラル・サイコロジーの展開」)

早い話が、「お人よし」集団でなければ、「複雑」な人間社会は築けない。協調行動ができなければ、それだけで、社会は多くの「ストレス」を生み出すわけで、少しも回らないのだ。私たちが日々を「快適」に過しているのは、回りの人が「自分を裏切らない」と思っているからで、そもそも自分を裏切りそうな人は、自分の身の回りから排除する。なぜなら、そうしなければ、危なくて、おちおち眠ってもいられないからだ。
しかし、そんなふうに人間を「定義」すると、いわゆる「功利主義者」からは、人間は馬鹿なんだな、と思われるわけである。
なんだ。人間って、「本能」のままに生きてやがるのか、と。そして、この問題の典型的なものが、トロッコ問題だと言えるだろう。
ロッコ問題は、よく「政治的」だと言われる。その意味は、そもそもの仮定が非現実的だから、ということになる。なぜか? こう考えればいい。もしも、トロッコが暴走して、「どちらか」の人間集団を「犠牲」にしなければならないというなら、PL法的に

  • 違法

だということになるであろう。ここでのポイントは、「どちら」の人間集団を「犠牲」にするかを選ぶのに、一定の時間の間隔がある、というところにある。ようするに、これだけの時間の猶予があるなら、その間に

  • ロッコも、二つの人間集団も、だれも被害を及ぼさない「安全な脱線のさせ方」

が見出されなければ、こんな危険なものを使ってはいけない、ということになる、ということなのだ。
こんなことは、どこの企業で「製品」を作るときでも、当たり前に考えされられていることであるわけで、むしろ、

  • ナイーブ

にトロッコ問題を、人生最大の問題みたいにはしゃいいでいる連中は、いわば、ロマンチックなのだ。
おそらく、その「文学的ロマンティズム」は、原発推進派に通じるものがあるのだろう。原発が「危険」なら、動かさなければいい。自然エネルギーを使えばいい。そして、はるか未来になって、原発を安全に使う手段を「発見」したら、その後で使えばいい。まあ、これが一般的な「技術者集団」の発想であって、これと反対のイケイケドンドンみたいなことを言っているのは、大抵、文系のロマンチストなわけである。
しかし、いずれにしろ、「ファーストインパクト」としてのトロッコ問題というのは「思考実験」できるわけでw、この認識からカント主義者を罵倒したのが、功利主義者であった。

進化論的暴露論法ではまず、私たちが現に抱いている道徳信念を私たちがもっていることは自然選択によって説明されると主張する。ところで、自然選択は「有利な変異の保存と有害な変異の棄却」を指すのであった。しかし、日本海に生息する魚の数が海王星の平均公転半径と関係ないように、生存繁殖上の有利不利は道徳的真理と関係がない。つまり、自然選択は道徳的真理を「追跡する」過程ではないのである(Kahane 2011)。仮に真なる道徳信念をもつ生物が生存繁殖上有利であるような状況が成立しているだけであって、環境が変われば自然選択はその生物を排除してしまうかもしれない。つまり、自然選択という過程それ自体には真理を優遇する性質がないのである。したがって、私たちが現に抱いている道徳信念は正当化できない。これが進化論的暴露論法である。
(田中泉史「道徳心理の進化と倫理」)

進化論的暴露論法をめぐる論争は現在も進行中である。だが、もしも進化論的暴露論法に対する有効な反論がないとしたら、私たちは正しい道徳判断を下せないことになるのだろうか。グリーンやシンガーはそうは考えない。というのも、彼らは進化論的暴露論法の対象になる道徳信念は直感的(感情的)なものに限られると考えているからである。彼らによれば、直観や感情に導かれた道徳信念は正当化できないが、推論に導かれた道徳信念は正当化できる。さらに、彼らはこれを根拠に(彼らが感情に基づくと考える)義務論的倫理学を拒絶し、規範的指針を与えうる倫理学としての帰結主義の一種である功利主義倫理学を支持するのである(Singer 2005; Greene 2008,013)。
(田中泉史「道徳心理の進化と倫理」)

こういった「進化論的暴露論法」については、今もいろいろな議論があるのだろうが、普通に考えて、以下の瑕疵があるといわざるをえないだろう。

  • なぜ「功利主義」が「感情」に基づかないのかを論証していない
  • なぜ「功利主義」が、まるで「唯一」の答えであるかのように語っているのかについて論証していない
  • なぜ義務論的倫理学が「感情」に基づくとしているのかを論証していない

例えば、トロッコ問題についても、近年の傾向としてはむしろ、これを「二重結果原理」に基づいて解釈する方法が一般的になっている。このことは、掲題の本で紹介されている「普遍道徳文法」といった解釈へ、拡張していく。

ミハイルは、トロッコ問題の変種を一二例作成し、それぞれのシナリオに描かれた行為に対する許容可能性判断のデータを分析対象として収集した。その結果、一人を犠牲にして五人を救う行為に対する許容可能性判断のデータを分析対象として収集した。その結果、一人を犠牲にして五人を救う行為に対する被験者の反応は、許容できないというものから、義務的であるという反応まで、段階的に分布する形になった。ミハイルは、こうした反応パターンを説明するための、道徳文法の計算モデルを構築した。彼によれば、道徳文法(図2b)の具体的な計算過程は、刺激入力から始まり、時間構造、因果構造、道徳構造、意図構造、義務構造の計算の連続として捉えることができる。この順序は、後続する構造の計算にとって、先行する構造の計算が概念的に必要とされる形で並べられている。
(飯島和樹「生まれいづるモラル 道徳の生得的基盤をめぐって」)

こういった認識は、以下の二つのことを示している。

  • 人間の「道徳」には、一定の「生得的」側面を示している。
  • しかし、そこにおける「過程」は、少しも「感情だけ」などというものではなく、複雑な「計算」が介在している

というか、これこそがカントの言う「義務論」なんじゃないですかねw
ここで問われているのは、「感情」と「論証」が、さまざまに「相互作用」をしている人間の姿にある。

ピアジェやコールバーグに代表される、旧来の構成主義心理学は、本質的には「空白の石盤」理論であり、生得的な道徳的知識を認めず、一般的な学習メカニズムのみが生得的であると仮定してきたが、実際は、学習プロセス自体も遺伝子に依存していることを二〇世紀後半の生物学は明らかにしてきたのである。
(飯島和樹「生まれいづるモラル 道徳の生得的基盤をめぐって」)

実際、近年では、グリーンを含め、多くの心理学者、神経科学者が、道徳において情動と認知を対立するものとして見なすのではなく、情動と認知が相互作用する在り方を重視すべきであると提案している(Cushman 2013; Cushman and Geene 2012; Helion and Pizarro 2014)。
(飯島和樹「生まれいづるモラル 道徳の生得的基盤をめぐって」)

言うまでもない。ある「情動」は、「認知」への衝動を動機づけ、その反応を強くするであろうし、逆に、ある「認知」は、新たな「情動」を生み出すであろうw だとするなら、「進化論的暴露論法」における、

とはなんだったのだろうw たんに私たち人間は、自らがもっている「義務論的<道具>」を使う過程で、あるべき人間の「道」を探し続けてきただけなのであって、しょせんは、有限なる人間ができることなど、その程度だ、というわけである...。

モラル・サイコロジー: 心と行動から探る倫理学

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