功利主義のパラドックス

そもそも、功利主義は「道徳」とは関係ない。なぜなら、功利主義は「幸福の最大化」だけが目的だと言っているのだから。例えば、こんなふうに考えてみればいい。ある人は産まれてから今まで、ただただ、人を残虐に扱うことだけが

  • 楽しい

と思って生きてきたとしよう。つまり、この人は、他人が苦しんでいたり、嫉妬に苦しんでいたりするのを見るだけで、「快楽」にうち震える、というわけである。つまり、この人にとって、

  • 悪徳こそが「幸福」だ

というわけである。つまり、この人にとっての「幸福の最大化」は悪徳を行うことだ、ということになる。
しかし、功利主義は次のように考える。この人が「悪徳」だけに「幸福」を感じるようになってしまったのは、いわば、子どもの頃のさまざまな「教育」のせいなのだから、この人に責任を問うことはできないw この人のこういった慣習は、いわば

  • コンテクスト

が生み出した産物なのだから、「この人のせいではない」というわけであるw
こうして、一切の「悪徳」は、功利主義にとっては「悪ではない」となる。どんな悪徳の人も、「かわいそう」な人に過ぎず、むしろ、その悪徳をいっそう「大きく」すれば、その人はより、その人にとっての「幸福」が増大するというのだから、より「悪徳」をこじらせた方が

  • いい

となる、というわけであるw
よって、功利主義は「道徳理論ではない」w では、これはなんなのだろう? 分からないw しかし、逆に言えば、功利主義が道徳理論でないからこそ、功利主義者による、道徳理論への「批判」は鋭いものとなる、とも言えるわけであるw
功利主義は一つの「パラドックス」に陥っている。それは、前回も述べた、

  • 進化論的暴露論法

に関係している。進化論的暴露論法によれは、「直観」や「感情」は、遺伝子の「命令」に従っているに過ぎないのだから、これに「従う」ことは、合理的に考えていないという意味で、「脊髄反射」と変わらないのだからダメだ、ということになる。よって、「推論」をベースにして行われる「功利主義」に比べて、「直観」や「感情」をベースにして行われているカント主義や直観的道徳論は、より低レベルだ、というわけである。
しかし、である。
そもそも、功利主義の目的は、「幸福の最大化」である。つまり、ここにパラドックスがある。非合理的であるという意味で、「直観」や「感情」を斥けたはずの、進化論的暴露論法は、その「推論」を行う

  • 目的

において、「幸福」という「直観」や「感情」の

  • 増大

を目指す、というわけであるw これは何を意味しているのだろうか? 「幸福」とは一般には、「欲求」の充足である。つまり、「感情」である。つまり、「推論」を行って、ある「感情」を増大させることと、

  • 最初から「感情」的であること

の二つを比べて、功利主義

  • なぜか

前者が「価値がある」と言っている、というわけであるw
なんなんだろうねw
どうして、こんな馬鹿な結論になってしまうのだろう?
それは、おそらくは、彼ら功利主義者が「仮想敵」とした、カント主義を彼ら功利主義者は理解していないから、なのだろう。
カント主義においては、次のように考えてみればいい。まず、カント主義における、定言命法は、確かに、定型的な命題の形で提示されているという意味では、人それぞれに違っている「幸福」を増大させるようには思えない(人それぞれで、「幸福」だと思うことは違っているにきまっているから)。しかし、そもそも、こういった形で述べられるカント的定言命法は、恐しいまでに「抽象的」である。つまり、普通に読んでも、およそ、その「意味」が一意に決定しない。
カント的定言命法が重視するのは、その外形的な形式の「固定」である。その外形が変わらないから、逆にそれを読む側が、その時々で、「自らの立場」の変化に対応して読むことを強いられる。とにかく、「変わらない」ことが、むしろ、人間の側の謙虚な態度を強いるのだ。ポストモダンではないが、会うたびに言うことが違う奴は、

  • 信用できない奴

として、私たちは最初から軽蔑する。それに対して、カント主義は、いつも言うことが変わらないからこそ、それに「直面」させられる人間の側が、その意味を、その時々で「深読み」を強いられるわけである。
しかし、私はこういった分析は事の本質を突いていると思う。というのは、実際に「道徳」って、そういうものだろう。そう考えてみれば、そういうものを道徳と呼ぶことは当然なのであって、功利主義は、たんに

  • 道徳ではない

で必要十分なのだ。カント的に言うなら、有限なる存在である人間には、せいぜい、カント主義的な「道徳」が関の山で、これくらいの命題の中で、日々、試行錯誤を強いられているというのが実際なのであって、それを功利主義者が「間違っている」と言いたければ、勝手に言っていればいい。それは、確かに間違っているかもしれないが、しょせん、有限なる人間にやれることなど、これくらいにすぎない。むしろ、功利主義者がそれ以上を人間が行うと「はったり」をかますことが、理性の越権行為なのであり、なんらかの超越的な「幻想」を、オレオレ詐欺のように信じ込ませようとする、悪魔の所業なのである...。