なぜ「自生的秩序」は国家の干渉を否定するのか?

そもそも、ハイエクの言う「自生的秩序」というのは、進化論が言っているような意味での「均衡」なわけであろう。
だれも「コントロール」をしていなければ、強いものが生き残り、弱いものは死んでいく。それを「秩序」と呼ぶのは、そうやって、一方の人は死に、他方の人が生きのこることよりも「大切」なことがあるから、そっちを

  • 守っている

という意味に理解できる。つまり、こういうことを言う人は、人間の生き死によりも大切なものがある、ということを言いたいのだろう。
まあ、それが「保守主義」だと言ってもいいのだ。日本で言えば、天皇制は日本の国民の一人一人が死ぬよりも大事なんだ、と。だから、さきの大戦では、日本人がたくさん死んだ。まあ、他のアジアの人もたくさん殺したのだが、そうやって、領土を獲得して、天皇に貢いでいた。つまり、そのことの方が、一人一人の日本人の生き死により大切じゃないか、という思想が優勢だった、というわけである。
一般的に、ある「状態」を、どこかの誰かが「コントロール」している、という考えを、「監視社会」と言うのだろう。しかし、監視していないという意味は上記の「自生的秩序」と何が違うのだろう? 監視とは、アラートシステムである。つまり、なんらかの「条件」によって、その閾値を超えたら、警告の意味でアラートが上がる、ということを意味していて、本質的にはその対象の

  • 内容

にまで介入しているとは考えられない。そういった内容にたちいるというのは、そういった内容に「関心」をもって「検索」をする、ということで、もう少し違った概念と考えられる。
もしもこの人間社会が、だれも「監視」をしていなければ、上記の言うように、「強いものが生き残り、弱いものは死んでいく」ことが繰り返されるのであろう。しかし、この人間社会には一定の「監視」があるから、「強いもの」はそういった行為を自重し、「弱いもの」はそのゆえもあって生き延びる。つまり、

  • 平和

が維持されるのであり、

  • 正義

が実現される。つまり、自生的秩序は「不正義」が横行するアナーキー社会だ、ということになる。
しかし、ここに逆説がある。
その「監視」機関が、どうして「不正」を行わないと言えるだろうか? もっと言えば、その「監視」機関が、まったく意識することなく、不正義を行うことは普通に考えられる。いや、その「分かっていない」を、あえて「演じる」かもしれない。自分の利益のために。
この問題を解決する鍵はなんだろう?
いや。同じことなのだ。つまり、その「監視」機関を「監視」する組織が必要になるし、「監視」機関がなんらかの理由で機能しなくなった場合にも困らないように、

  • 複数の「監視」機関

が平行して、同じ対象の「監視」をしなければならない。
つまり、上記の議論が間違っているのは、「自生的秩序」が「正しい」という意味は、

という意味ではなくて、

  • コントロール「自体」でさえ、複数の競争が必然的に存在しなければ「おかしい」

ということなのだ。ここには一切の「例外」がない。つまり、「もっとコントロールがなければならない」ということを意味するわけで、まったく話は反対なのだ。
例えば、この場合の国家が分かりやすい。なぜ国家は唯一なのか。警察は唯一なのか。裁判所は唯一なのか。そんな理由もない。複数で「競争」をすればいい。そういった

  • 唯一性

ということが求められる、一切の何かは「うさんくさい」と考えるべきだ。人間のやることに、「唯一性」などありえない。それは、カール・ポパーの科学論において、「反証可能性」がキーワードとなるように、そこには

  • 複数による「同じ」チェック行為の共存

が、あまりにも当たり前の前提となっていることから分かるように、そのチェック行為を行う存在が「一つ」となった時点から、その組織は腐敗するのだ...。