植原亮『自然主義』

私は「哲学」という言葉が嫌いだ。それは、この言葉を使う連中が信頼できないからだが、むしろ彼ら自身が

  • 哲学=ポエム

ということを認めた上で使っているという意味で、うんざりだ、というわけである。しかし、ある意味で詩人は自らが書く詩において、ときには「真剣」に「科学」をやっていると伺わせることもあった。ようするに、

  • 科学=科学と認められる「ポエム」

ということなのであって、それ以外が「科学と認められないポエム」という関係になっている、というくらいに受け取っておけばいいのであろう。
掲題の本は自らを「自然主義」と名乗りながら、なぜかそれがなんなのかを定義しない。そのかわり、あまり意図の分からない「説明」のような文章を常にその用語と共に乗せているw

何よりもまず、哲学は科学と継ぎ目なく連続している、という主張がここにはある。

だったら、ここであなたが説明しようとしているものを「科学」と呼んだらどうでしょうかw なぜ、掲題の本の著者は「一般に今まで哲学と呼ばれて語られてきた題材について、科学的にアプローチする科学の行為である」と、この本で書かれている内容を説明しないんでしょうかねw
なんか、「哲学」という言葉を使うことが高尚な、崇高な、意味のあることであるというような「価値観」でもあるんでしょうかねw

表1からもわかるように、ア・プリオリな知識は、典型的には数学や論理学に見出される。こうした分野における知識は、経験とは独立であるがゆえに、いったんその正しさが示されれば、この世界に関する新しい情報がどれほど得られようとも揺らぐことがない。たとえば、数学の定理は一度証明されれば、その証明自体に間違いがないかぎり、覆されるおそれはまったくない。

よく分からないのだが、なぜこの本には「言語論的転回」に関する記述がないのだろうか? まず、科学は言葉によって記述される。しかし、言葉は「記号」にすぎないのだから、どんなにがんばっても、それとの正確な対応関係など存在しない。必然的に、言語は、その対象のある「顕著な特徴」をモデルとして記述したものにならざるをえず、しかも、その言語とその対象との、そこにおける「対応」関係は、それぞれの科学者集団内で、まさに職人が弟子に「一子相伝」の伝承をするように

  • 伝える

ことしかできない。
言うまでもなく、数学も論理学も、ただの紙の上に書かれる記号である。ようするに、言語とは「二次元の幾何学」なのであり、つまりは「二次元の物理学」である。上記の説明が根本的に間違っているのは、その数学の「モデル」が、実際の物理現象に本当に対応しているのかどうかが問題なのであって、つまり、その「適応」こそが問われているのであって、数学や論理学が「正しい」なんていうのは、(それは二次元の物理学が「正しいかどうか」と問うているのと変わらないという意味でw)当たり前なのだ。
そういった意味で、数学も論理学も「経験科学」と少しも変わらないw むしろ、今だになんでこんなことに掲題の著者が悩んでいるのかが私には分からないw

ちなみに、こうした点を踏まえて、反証主義という科学哲学上の立場では帰納を科学から放逐しようと試みているが、科学における予測の位置づけなどに困難を抱えているともいわれている。本書ではこの立場について検討する余裕はないため、さしあたり科学は帰納に支えられているものとしておこう。

この本は、科学の話をすると言っておきながら、カール・ポパーの「反証可能性」の話をしていない。ようするに、ここで言っている「科学」とは「素朴科学論」の科学であって、どうもカール・ポパー流の定義ではないようなのだw
カール・ポパーの科学論はどこか、カント主義的である。カントのコペルニクス的転回は、ある種の「観念論」に哲学を還元する。それは人間の「有限性」に関係してのことであるが、私たちが自らにとっての経験なるものと、「幻想」を区別できない限りにおいて、私たちが認識すると言っているすべてのものを「幻想=観念」の側に倒して理論を組み立てるしかない、というたてつけになっている。
ポパーの科学論も基本はこれを踏襲しているわけで、基本的にあらゆる科学は「仮説」なのであって、それが「反証」されない限り否定されない、というにすぎない。ようするに、科学は「真実」に辿り着くことを目的にしていない。つまり、真実などどうでもいいのだ。
つまり、大事なことは人間が毎日、自分の体験として実感していることと、それをどのような言葉で説明することが「正しい」のか、ということは、まったく意味のない問いだ、ということなのであって、そもそも「言葉=二次元の物理学」と私たちが日々感じている「リイアリティ」を、なんらかの「対応」したものと考えることの方がおかしい、ということなのだ(何度も言うが、言葉はただの「記号」なのだw)。
じゃあ、科学ってなんなんだ、ということになるが、それこそ今、私たちがスマホを握って、いろいろな「便利」なことを行っているように、そういった

  • 事実性

を意味しているにすぎない。理論がどうであれ、こうやってなにかが実現しているということが科学のプラグマティズムなのであって、それでいいわけである。

このことが示唆しているのは、科学にとって哲学は避けられないということだ。科学が明らかにしているこの世界は、全体としてはどんなあり方をしているのか。探究の目標として適切なのは何であり、それを達成するにはどんな方法を用いるべきなのか。いずれの問いも、全体性や規範性に関わる点ですぐれて「哲学的」な問いである。だとすると、科学という営みは、そうした何らかの哲学的な前提を不可欠の部分として必ず含んでいる、ということになる。こうした問いが原理的には科学的探究を通じて答えられるべきだとする見解に立つ場合でさえ、その探究には何らかの哲学的な前提が欠かせない。

だから、なんでそうやって「基礎付け」をしようとするのw それこそ「科学」でいいじゃないですか。だから「文系」は馬鹿にされるんだよ。なんかあるとすぐ

  • メタ

とか言いたがる「中二病=哲学者」は、これこそ「科学」だと言えばいいんであって、文系がやっていることも「科学」だし、なんでそれじゃあダメなのかなw 恥ずかしくないのかな...。